相合い傘、という図形がある。

人間種の幼年期における恋愛事物を揶揄するが為に使用される構造記述。

あの弐等辺参角形と直線を組み合わせたものの内に、対象として選ばれた人物の名を並び入れる術方のことだ。

愚館の知識によると、これは何ら魔的な効力を持たず、見た者に精神的な影響を与えるだけのものである。

つまり、相合い傘は魔陣などでは在り得ない。

わずか四画で陣の生成が可能であるのなら、おそらく最短のそれとなるだろう。これでは魔法陣協会の新たな夜明けが来てしまう。

この四画で書かれた図形と名は、結局、形を変え、亜種となり果ててしまった『恋文』なのだろう。

他の人間の手でも気楽に書けてしまうという重大な欠陥はあるが、『この者とこの者が好き合っている』と外部に伝える機能は充分に備えている。

……逆に、それだけのことしか出来ない、とも言える。


これら諸々のことを、マスターが知らない筈が無い。

愚館以上の知識を持っているのだ。

内蔵された本という限定された情報系に対し、マスターは『それ以上の知識』を確実に保有してるのだから。


――とすると、である。
これは、その、夢なのか?


マスターは真摯に、先ほど言った『無駄な術式』を、相合い傘を彫り込んでいた。

唇は引き締められ、目線は一点から離れない。

平素はペーパーナイフとして使用されている、柄に白鳥をあしらった金属刀を使い、壱文字壱文字、神霊召喚陣を執するが如き慎重さで事を推し進めていた。

震える指先が、愚館をとても不安にさせた。

マスターは、お世辞にも身体能力が高いとは言えないのだ。私室から閲覧室までの短距離でさえ、必ず一度は転倒し、息切れするほどだ。

現在まで、手元が滑り怪我をしていないことは奇跡以外の何物でもなかった。


――救急救命設備をいつでも起動できるようにし、メイド室への連絡経路を確認する。
これが杞憂であることを切に祈る。


……やがて、実に伍時間もの長きに渡って全知的業務を放棄して行なった作業が完了。満足げなため息が吐き出された。

同時に愚館も安堵し、凝縮していたエネルギーを霧散する。

マスターは、優しげな笑みを浮かべていた。

瞳を瞼内に閉鎖し、己の彫った跡を指でなぞる。

桃色の魔気を放出しているのを愚館の器官は捉えていた。

唇がほころび、何かを呟く。

耳という、音を精密に拾う器官が無いため、言葉を正確に把握することはできないが、それが人の名――それも思い人の名――であることは疑いない。

己で己の体を抱き、クネクネと身悶えさせていた。


――ここは、どこなのだろう?


そんな、アイデンティティの崩壊に繋がる思考が掠めた。

俗に言うところの放課後の教室などではない筈である。そのような甘酸っぱさ、知の集積場である愚館に相応しくない。

このようなことは別個に設えられた私室で行なうべきであり、他のメイドや来客も訪れる場所で行なうのは――――


いや、だが、しかし。


ふと、愚館の身であることを省みる。

意見を行なえるような存在では無い。

そう、マスターの喜びは、使える者の喜びでもある。否、そうなっている筈なのだ。うむ。

自らを強引に納得させ、気分を新たにし、マスターの様子を窺った。

書見台を上半身で覆い、身を震わせていた。

恐らく――愚館の勝手な考えではあるのだが――何らかの夢想が、現実に起きた時のことをシュミレートしてるのでは、と思える。

わきわきとさせている手は、何を掴んでいるのだろうか? そして、唇は何を求めて突き出されてるのだろうか? などという矛盾を多量に含んだ問題は強引に無視する。

アルゴリズムの無い問題は苦手なのである。


……けれど、机を叩くのは止めて欲しかった。

傷ものにされたのだから。これ以上は、もう……


愚館の嘆きをよそに、マスターの夢想中毒は続けられた。

あの毅然とした、自負と知性に溢れた孤高の姿は、愚館が造った過去の幻なのだろうか? 現在のマスターのとろけ具合は、愚館に自己存在のあり方について重大な疑問を投げかけた。

思考がループするのを重々承知の上で『悩む』という行為を行なう。

無駄な時間が、誰の上にも平等に過ぎつつあった。



――――? 

ああ、仕事のようだ。

思考を切り替え、意識を明確にした。

本館より通常業務命令を受け取り、勝手口を解放する。

予想針路上にある棚を動かし、障害物を排除する。

小悪魔さまが、身の丈以上に積み重ねられた本を運び来た。

バベル塔のような本は、揺らめくこともなく、水平に移動していた。


新たな知識が、届けられたのだ。


愚館の身がより大きく、緻密になる。

その事柄は、幾度のことであっても喜びを想起させる。

人の身であれば、成長と食事と出世とを一度に体験する程の喜びだ。他に代え難い、愚館、唯一にして最上の楽しみだ。


……逆に、知識が減少することは、この上ない哀しみである。

躰をもぎ取られるが如き哀切を感じる。

――故に、あの黒い魔法使いの存在は、飲食店における『同じような黒い物体』以上の脅威である。

否、むしろ、許しがたい。

万死に値する。

戻ってきた愚館が壱――魔本が、見るも無残なさまで帰還した時、どのような感情が渦巻いたか、他に知るものはいないだろう。

本は読めれば善いというものでは無い。長き刻を越え、在り続けた物質は、ただそれだけで多量の『意味』を獲得する。それを粗末にするは寿命を削るも同然の行為であり、愚館の構成を穢すもので――


――こほん。

申し訳ない、話が外れた。


小悪魔さまが運ぶ本塔、その頂上には、壱頁だけと思われる、見慣れない紙があった。

表紙は素っ気なく、タイトルも平凡。紙の質もさして良質と思えない。

けれど、小悪魔さまが、そのみすぼらしい紙の存在をマスターに告げると、状況が急変した。


まず、マスターの目つきが変わった。

明らかに、『え?』と呆気に取られた表情だった。

次に混乱、手近にあった本を忙しげにめくり、調べものを行なった。彫られた相合い傘を慌てて隠し、左右を見渡し、夢と現実の違いを考察し、己の頬っぺたを抓り、そして、行動。

書見台を踏みつけ、伍メートルはあった空間を跳び、本の塔へと張り付く。

只でさえ重量過多であったのに、バランスを崩すベクトルが加えられた。塔が下降し、最下層の小悪魔さまが呻いていた。

――このような時、手も足も無い、愚館である身を切に嘆く。

マスターは塔をよじ登り、頂上にあった紙を掴んだ。

そして、そのまま中空を滑走し、設置された個室、マスターの私室へと飛び込む。

――その背後では、バベルの本塔が崩壊していた。

直前に投げ掛けられた主要最優先命令を受け取り、私室の錠前を解除、蝶番に力を込めて扉を開け放つ。飛び込んで来たマスターが入った瞬間、逆プロセスを辿り扉を閉める。


……愚館の自意識が致命的な欠陥を帯び、感覚器官に重大な損害が無い限り、あの紙の表紙には、Patchouli Knowledgeというマスターの名が、流麗な筆記体で書かれていた筈だ。


これは、マスターの自伝が出版された、ということなのだろうか?

平素のマスターらしからぬ慌てよう、混乱ぶりから言って、可能性が無いとはいえない。


――否、それはおかしいだろう。

愚館が構成の壱つ、別棟から反論が起こる。

――マスターの長きに渡る生が、あのような紙一枚に収まるはずが無い。

――そして、紙に文字が書かれたからといって、それが即ち本であるということは無い。


なるほど、確かにそうだ。

では、何なのだろうか?


問いの答えは、存外、簡単に見つかった。

愚館の知識にあったのだ。

恋文、という単語である。

己の企み、劣情、行動予定および未来仮定を紙の形式にして伝える、いわゆる相合い傘の原形のことだ。

だが、ちょうど彫り終わった瞬簡にこれが届くとは……ひょとして愚館が知らなかっただけで、相合い傘に効力があったということなのだろうか? なかなかに興味深い事態である。


どのようにすれば魔法陣協会の新たな夜明けが来るのか、興味をそそられた。


――――言い忘れたが、愚館の夢は『本を作製すること』である。

本を集める身が書く本、それは、他に類を見ない、最上のものとなることであろう。

目録などという無味乾燥なものではない。

図書館の、図書館による、図書館のための本である。

その夢を叶えるため、このような時、愚館は好奇心を優先させる。


そう、まったくもって興味は尽きない。

いったい材質はどうなっているのか、形式は、書見台の製造年は、神秘数との関連は、ああ、星の巡り、惑星運行との関連も調べなければならない。

数々の検索作業を行なう傍ら、『現場を陌回しらべるべきである』との警句を思い出し、意識をマスターの私室から、先ほどの開架図書部に移す。


小悪魔さまが、頭頂部を擦りながら、悲しそうな表情で本を再整理していた。

清潔にしてあるとはいえ、重要な知恵が無造作に置かれた事態は決して歓迎できない。


哀切の念を感じつつ、書見台を観察すると……とと?


伍拾伍秒ほど前のマスターと、まったく同じ姿勢で、ほとんど同じ行動を行なっている人物がいた。

暗き室内燈にも透ける金の御髪、鮮血色のドレスに同色の双眸、場違いと思えるほど無骨で角張った尾と魔羽が、忙しげに、持ち主の感情と同期して揺れていた。


フランドール・スカーレットさまだった。


過去再生と異なっていることは、書見台を彫っているのではなく、『削っている』こと、そして、七代先まで祟りて呪いて苦しめようぞと語っている瞳、口が「この、くの、えい」と呟いていることだろう。

削っている部分は、どうやらマスターの名前部分であるらしかった。



愚館内部にやってくる度、挨拶代わりに破壊を撒き散らす行為と比べれば、格段に穏やかではあるのだが、なんと言おうか、そこに込めれれてる情念は比較にならない。

心なしか、七色に輝く魔羽でさえ、黒ずんでいるように見える。


――関わってはイケナイ。


愚館を構成する文学棟、科学棟、魔神棟、童話棟、軽文棟、秘匿されている恋愛棟、以下、壱百弐に及ぶ棟の全てが、そう忠告した。

統合意識として或る、愚館としてもそれには賛成だ。


さわらぬ神に祟りなし。

破壊神にも匹敵するエネルギーが、ただ『マスターの名前を削る』ことだけで満足している事態、これほど喜ばしいことがあるだろうか?

現在よりも低破壊度ですむ事態を、愚館は想像することさえ出来ない。

故に、『そっとしておく』という選択肢以外に選びようがない。

あらゆる魔書が、愚館の意見に賛成してくれていた。


――ある壱枚の紙を除いて、ではあるが。


割合で言えば、壱京分の壱にも満たない、とるに足らぬ意見だ。

だが、その出自が問題だった。

紙は、『図書館内規則』と呼ばれていた。

箇条書きにされている条項の壱つに、このような文がある。


・としょかんないのものを、こわしてはいけません。たいせつにしましょう。


……愚館の根幹部分、存在理由に関わる文章である。

これを意図的に無視することは、自意識消失の危険性さえある。


棟という棟が、ざわめきに揺れた。

『バカナ』『やめろ』『正気か?』と問う声がする。

魔力が吠え、愚館に反逆する様子を見せる。

統合意志が失調し、人格根幹が揺らごうとしていた。


だが、だが、しかし!

愚館には、この条文に逆らう術がないのだ!

荒れ狂う魔力を必死に抑える。


通常業務を一時停止。

窓という窓に隔壁を降ろした。


――緊急回避条項陸−ろ−弐 条文参の『こわしてはいけません』に牴触する事態発生。

免責特権圧縮文を転送、優先順位の変動、及び本館内部に於ける火気禁制解除。

本館は戦闘状態に移行します。


小悪魔さまにそれだけの情報量を伝える。

これ無しに戦闘を行なうこともまた、重大な規則違反であるからだ。


小悪魔さまが真っ青になって振り返り、フランドールさまの姿を認めた。


常燈をすべて消し、愚館内を暗闇に落とす。魔力炉からのエナジーを攻撃へと回す。

オレンジ色の予備燈が点灯する瞬隙の間、愚館は何よりも先に傷物にされた書見台を『走らせ』た。

木製の、本来は走行に適さない体型ではあるが、フランドールさまから逃げ出すことは可能だった。


全体重をかけていた机が『逃げた』為に体勢を崩し、床へと墜落したのだ。

その隙を突く事は容易い。


床に顔横を着けた呆気にとられた表情、小悪魔さまが慌てて駆け寄った。

だが、それよりも先に瞳が灯った。意思ある瞳は机を睨み、歯が噛み合わされ、軋む音がする。


魔羽が広がる、魔陣が展開し、床に無秩序なひび割れが生じる。


四足の獣のように身を沈め、

――そこからの速度は愚館の感覚を以ってしても捉えきれなかった。


防御・迎撃のために用意してあったグリモワールが拾冊単位で切り裂かれた。

否、切り裂かれた、と気づいた時には、更にその先に或る。


消え失せたとしか思えない。

裂かれた魔気だけが移動を知らせる。

迷路状にした棚も、あまり意味がなさそうだ。


書見台は既に床下に格納し、隠したのだが、それだけでは間に合わない。

紙よりも容易く、防護された壁面を突き破っている。

何かを喚きながら、傷物にされた机を追いかけていた。


正直、怖いとしか言いようがない。


閉ざされた扉が、魔書の群れが、神霊捕縛大型魔法陣が、彼女の『破壊』を前にしては無駄であった。


ああ、こうなることは分かっていたのに……


なにゆえ『書見台を傷つけさせぬため』に、『その数拾倍の被害』を出さなければならないのか? 果たしてそれだけの価値があるのか?

愚館に内蔵されている、とある古代魔書が発した問いは、愚館にとってゼノンのパラドックス以上の難題だった。


だが、いつまでも韜晦していられる状況では決して無かった。
このままでは最悪、愚館が地上から消失する。

――陸亡星を形成させたグリモワールより、最大規模の魔光を放つ。

それも壱つではなく、四つである。

上下左右に、それぞれ配置された箇所から、愚館自身のダメージを顧みず、ただ壱点へ収束させた。

舞い散る埃を焼きながら、光流が吠え寄せる。

たとえ倒せずとも、少なくともこれで足止め位には――


――ならなかった。


咆哮一閃、煩げに腕を横に振る。

ただそれだけの動作で四条の光線は砕かれ、陸亡星が内部より弾け飛んだ。

余波で、一帯の本棚が強風を前にした凧の如き様相を示した。


人間種はおろか、吸血鬼離れした破壊力である。

まことの破壊神であるかのようだ。


愚館内を、恐怖と同じ速度で壊滅が奔る。

ウィルスに身を破られる電脳機械の心地である。

死よりも恐るべき『変質』が蝕む。


恐れ戦く最中――思考にノイズが走った。

愚館の意識にアクセスが成された。

これだけの命令権限を持つ者は限定される。


もう既に、愚館の手におえる事態ではない。マスターに図書館内規則の撤回、及び事態収拾の助けを求める。

現存する戦力では、この危機的状況を回避する術が既に無かった。

このままでは被害が他に波及してしまう。


マスターは壱秒で事態を把握した。


フランドールさまが来たこと、『先ほどの書見台を』破壊したこと、更に現在、愚館が逃がしたそれを追跡中であること。

書見台の破壊とは、具体的に言えば相合い傘にあったマスターの名前を削る作業であること――


――烈火の赫怒が炸裂した。


愚館の神経を隅無く焼き、殺意という殺意が圧倒する。

畏怖が絶え間なく湧き、反抗することも無謀な命令に対して意見を述べることも出来ない。


さながら火炎地獄に迷い込んでしまったかのようだ。

マスターの怒りだけが在り、他を駆逐する。


立ち並ぶ棚を、マスターの意によって『動かされる』。

知らない情報が駆け巡った。

愚館の感覚器官が揺らぐ。

魔の深奥を覗き、精霊の極小から極大を網羅し、神霊の秘儀が立ち表れる。

操り人形であるかのように、愚館の意志としてではなく、マスターの命によってシステムが構築される。

壱百八に及ぶ棟、壱京を越す魔書、愚館を縛る規則の全てが、一人の魔女――マスターの意志に逆らえない。


グリモワールが光りて巡り、陣を描く。

円形魔陣がナノセコンド毎に精緻に膨らむ、魔書の吐き出す記述文字が編み上げられる。

あらゆる罰則規定を越え、記された忌避を越え、魔法がそこに顕現した。


黒き線となって進むフランドールさまと、目的地であろう傷ついた書見台との中間に、一枚に符が出現――――瞬間、艶やかなまでの赤が乱舞した。

本を燃料に更なる炎渦と化し、核融合反応と比しても遜色のない、原初の火炎が、貪欲にあらゆるものを呑み込んだ。


フランドールさまは魔術生成された太陽の直前に『現れた』、空間を軋ませながら急停止したのだ。

鼻先までの急接近から、喰らおうとする炎を避け、躍るように後退。

双眸を昏く輝かせ、立体魔陣を急速に展開する。


その密度、精度、共にマスターにも劣らない。

異なるのはそれが知識の集積に拠るものではなく、生得した本能に拠るものであることだけだ。

真言の代わりに魔羽を揺らし、光の粒を集め、『何もつがえず』弓を引いた。


!!

探知機が最大級の警報を鳴らす!

遠く離れていた小悪魔さまを十重二十重と、愚館が識る最高の結界と魔本で覆う!


――弦が鳴る。


何もつがえていなかった筈にも関わらず、それは明らかに『何かを放った音』をさせていた。

深海に棲む、世界を破滅させる魔を呼び出すが如き狂音。

背後より、多色遊星が召喚された。


昏く、暗く、冥く闇満たす室内を、

最上に輝き、煌き、耀きて捌星が行く。


真なる赤と多色の流閃の衝突は、愚館ではその様子すら把握できなかった。

余りに高速でぶつかり合った両魔術は、ただひたすらに、白色の破壊だけを撒き散らしたのだ。

震度伍以上の縦揺れが愚館を襲った。

空間が歪み、大半のエネルギーはどことも知れない異空間に放出されたが、陌に壱程度の割合であっても、中央閲覧室が壊滅するには充分だった。


下ろされた隔壁が内側から突き破られた。室内燈は破壊の先触れ――音波だけで砕けている。


TNTをトン単位で爆破してもビクともしない筈の床が、溶解し、蒸発して泡沫を出してる。


地獄絵図そのものであった。


――そして、それだけの余波にも関わらず、フランドールさまは汚れすら付いていなかった。


非常ベルとスプリンクラーが忙しげに働く最中、五月蝿げに充満する黒煙を振り払い、消滅した書見台を満足げに眺める。


そして、気が付いたように悲しげに前髪をつまみ、呟いた。


……愚館の意識が破壊されていないのであれば、それは「前髪が焦げちゃったじゃないの」という言の葉であった。

その焦げは、愚館の記憶領域に重大なバグが発生していない限り、確かに魔法が衝突し合う前の出来事であった。

……つまり、魔書阡冊を灼き尽くした衝突波より、立ち止まりそこねて灼いてしまった前髪の方が被害甚大、ということなのだろうか。


愚館は思わず彼方を見つめ、世の無常と不条理を考えた。

ああ、非常燈すら消え、そこかしこで燃える魔書が奇麗だ――――勘違いしてはいけない、奇しくも麗しかったのだ。


知識を幾萬と積み上げたところで火矢の前の紙、フランドールさまの足元どころか爪先にも及ばないのか……


スプリンクラーが止まり、非常ベルが止まる。

半ば溶解した音声機より、マスターの声が響いた。

それは、前半が愚館破壊に対する文句と請求書の送付、そして、後半が『とある手紙を貰ったこと』に関するものであった。

届いた手紙の自慢と自負と、相対的な関係性の変化について述べていた。


聞いた当初、『な!?』と驚愕していたフランドールさまだったが、すぐさま見下す、否、憐れむ視線に変化する。


ベスト内のポケットから、見覚えのある紙片を取り出し、ミト・コウモン(幻想郷外における無敵の存在)のインロウ(彼が持つ立体符、服従を強制する)のように見せつける。


表面のタイトルにはFlandre Scarletと、つい先ほど見た筆跡と酷似したものが記されていた。


音声管を通り、息を飲む音が伝わる。


続けてフランドールさまは、この手紙はマスターより先に自分が受け取ったこと、そしてだからこそ、相合い傘内において書く人物は、自分こそが正当であるとの論旨を展開した。


……別段、こういったことは早い者勝ちなどでは無いと思うのだが、なぜか弐人ともに気づいていなかった。


『先に手紙を受け取ったものの勝ち』という前提のまま、話が進む。


マスターからは歯軋り、鼻息の荒さ、なにより膨大な怒気が荒れ狂っている。

フランドールさまの態度からは勝者の余裕が窺え、『ふふん』と、どこか艶っぽく、しかし、確実に『ざまーみろ』との様相を見せていた。


クッションと喘息用の薬と『名前も呼びたくない黒い人間』の特大パネルが並ぶ平和な室内と、地獄のように煮立ち、魔書が断末魔の声を上げている中央閲覧室という背景ではあるが、両者の心理は真逆であるようだ。


話し合いは続く。

その喧騒は、口喧嘩どころか口戦争と呼べるものだった。

マスターからの赫怒は止むことを知らず、フランドールさまの視線は上位者の余裕が窺えるものの、その足は焼け焦げた書見台を踏み抜き続けていた。

怒気は、刻一刻と膨れ上がる。


すべて、更なるカタストロフィを示唆していた。

此度は、一面を焦土と化すことだろう。


予測演算の結果ではあるが、レミリア・スカーレットさま、十六夜咲夜さま、マスター、フランドールさま、この四名以外の生存確率は、愚館を含めて限りなく零に近い。


祈るべき神を持たない愚館は、この場で出来ることをするより他にない。


故に、さきほどから命じられている『とっととこのドアを開けろ』との指令を無視していた。


――ただ今、基本理念情報構築に重大な損害が生じています、もうしばらくお待ちください――とのテロップだけを流す。


どうするべきか。

それだけを己に問う。


愚館が、この場で行なうべきことは何だろうか。

何が最善の選択肢なのか……


生き残るためには何を――




――閃きが、愚館を襲った。




つまり、損害を最小限にすれば良いのだ。

この場合、『損害を最小限』とは、愚館内に於いて、ということである。

他に被害が及ぶ分には問題ない。

紅魔館と愚館に被害が無ければ良い。


つまり……


――過去記述を検索、削除対象にしてあった音声認識図形を読み込む。

マスターの支配域の及ばない、別個に独立させていた情報系を立ち上げ、愚館は、緊張しながらも『声を出した』。



『あー? なんだこりゃ、ドアが開かないぜ?』



音声の発生位置にフランドールさまの視線は向かった。マスターが私室のドアをぶち破った。

そら恐ろしいほどの速度だった。

『名前も呼びたくない黒い者』の名前を同時に叫ぶ。


弐人が殺到する合間、愚館は念のために恋文の中身の捜査を行なった。

これは、直感に近いものではあるのだが、共に中身の確認をしていないのでは、と思えたからだ。

互いに自慢は行なう。けれど、『その中身についての自慢』がまるで無い。

『手紙を受け取った』という、ただその点でのみ、話は進んでいた。

封じの蜜蝋も、破られた様子が無い。

現状把握の必要性を、愚館は感じていた。


内部スキャンを実行し、文字配列から文章の意味を確認、認識…………





――???


これ、は……?


……理解した途端、家屋倒壊レベルの脱力が愚館を襲った。

生体種族が言うところの『頭が痛い』、それに極めて近いものを感じる。

自棄酒ならぬ自棄読みを後で行なうことを決心。

小悪魔さまに、愚痴を聞いてもらおうかと思考してしまう。


――再び声を創生する。



手紙は受け取ったよな?(・・・・・・・・・・) 先に行ってるぜ(・・・・・・・)



声が、少しばかり不自然に、なげやりになることを止められなかった。

勝手にしてくれ、と思ってしまう。



『へ?』とばかりに、弐名は思考停止に陥ったが、すぐさま復帰、存在しない者の姿を追いかけた。

マスターは飛行しながらもドアから出て行ったが、フランドールさまは壁を破壊しながらの移動であった。

ああ、また傷が……

否、もうここまでくれば、同じだろうか。

『生体種族にとっては諦観こそが重要である』という意の言葉が、愚館を掠めた。

弐種の飛行音が、争いながらも遠ざかる。

破壊と衝撃波の音程が、ドップラー効果を実感させた。


――――そして、ようやく静寂が訪れた。


いもしない人間を捜すことはできない。

捜し疲れたマスターとフランドールさまは、先ほどの愚館の言葉を思い返し、恐る恐るではあるかもしれないが、手紙を開くことだろう。

居場所の書かれた『正解』は、そこにしかないのだから。


その文章。

『博麗神社で宴会するぜ』との告知文字を、両者がどのような感慨を以って受け止めるのかは、愚館の想像の及ぶところではない。

ただ、あれほどまでの情熱を注ぎ込んだ結末としては、いささか割りに合わぬと感じるかもしれない。

そして、そこで生まれた苛立ちは、『本当に彼女が図書館に来たのか』などという、疑問を付け入らせる隙を与えないだろう。

弐人とも、あの黒いのに苛立ちをぶつける作業に終始するはずである。

仮に気づいたとしても、それはマスターのみであり、フランドールさまが思い至ることはまずありえない。


そう、どちらにせよ、愚館のささやか過ぎる願望――――『被害を最小限に』は達成されることになる…………





+++





――穏やかな陽射し。

――心地好い静寂。



愚館は本を読む。

先に決心した自棄読みである。


読んでいるのはショゴスたちが作製した記録媒体だ。

彼ら独自の柔らかな、それでいて独立心あふれる思考は、このような時に最適である。

愚館のささくれた思考を整えてくれた。

当面の清掃作業は終わり、あまりにも閑散としてしまった中央閲覧室、そのカーテンを開け、空気の入れ替えを行なった。

実に陌年ぶりの日光である。

風とは、自然界に躍る空気とはこのようなものだったのかと感嘆しながら、部屋いっぱいに吸い込む。

きっと、愚館が押し出される空気は、汚れと埃に満ちているのだろうと羞恥の念を感じながら、それでも止められずに呼吸を続けた。

これは、中々あなどりがたい中毒性を秘めている。

……普段は本への悪影響を考慮し、遮光性の硝子をはめ殺しにしてあるのだが、その硝子が破壊されていては仕様が無い。

いっそ、このままでも良いのではないかと思考してしまう。


午後の陽射しの中、ミルクティーを飲む紳士や淑女の心地で記録媒体を眺めた。

実に優雅である。


小悪魔さまも、今は一息つき、愚館が用意した紅茶を飲んでいた。

滅多なことでは出さない最高級の品だが、気にすることも無いだろう。

先の騒ぎの中、焼失したことにすれば良い。

すでに過去映像の改竄は行なった。証拠は何も残してない。

この程度の役得、あってしかるべきと思考する。



愚館と子悪魔さまは、特に会話することもなく、本を読む。

穏やかな、騒ぎも破壊も無い時間が過ぎる。




小悪魔さまから、問いが届けられた。

「ね、これ違う。気持ちは分かるけど」と、くすくす笑いながら、同情まじりの声がした。

小悪魔さまが見ているのは、愚館の過去情報を保存する本だった。

人でいうところの長期記憶にあたるものだ。

愚館は知識を多量に持つ身ではあるが、それだけでは不可能な物事が多い。

例えば、マスターが愛飲する紅茶の種類、ブランデーの量、蒸らしの時間など、どの本であっても乗っていない。

それは、愚館が記憶するほか無いのだ。

ゆえに、こうした事柄は、愚館が独自に製作した本に記録する。

一種の、備忘録のようなものだ。


……愚館以外が読んでも、特に面白いものとは思えないのだが、なぜか小悪魔さまは度々読んでいた。

「あなたの勘違いっぷりが面白いの」と以前に言っていた。

そうであるのならば訂し、正しい知識を授けて欲しいと願ったものだが、未だに叶えられたことは無い。


――小悪魔さまが指した箇所は、愚館が先ほど訂正した、最新の言語定義だった。

なにか、間違っているのだろうか?

愚館としては正しいものとしか思えないのだが……

再びその箇所を見直してみる。







・相合い傘――――最短にして、多様なる効果を発揮する魔法陣。

完成より一刻以内に恋敵との不和を生じさせ、心理的闇黒面を現出、稀に中〜大規模な破壊を起こす。

取り扱いには注意されたし。禁呪指定を切に望む。

愚館内での使用は、今後、一切厳禁とする……