ナイフから血が滴った。
むせ返るような血臭が立ち込める。
わたしは荒い呼吸を繰り返し、背後の幹に寄りかかった。
目の前には、赤い物体がゴロゴロと転がる。
わたしが成した、斬殺死体だった。
初めて、ヒトを殺した。
別段、何の感慨も無かった。
そのことが、逆にショックだった。
予想していたような罪悪感や、吐き気は無く、ただ、「カメラのレンズと違いわたし自身の視界であれば、ここまで無制限に時空を操れるのか」と認識しただけだった。
むしろ、メリーを害するモノを排除できた安心感すらあった。
臨界で働かせた能力のせいか、疲労は極限まで達し、目を閉じればそのまま気絶しそうだが、わたしは倒れるわけにはいかなかった。
本当にやるべきことは、むしろ、この後に控えているのだ。
何だかんだと言って、今はただの道途中でしかない。
「…………行かなきゃ」
身を起こし、足を踏み出す。
空間を操り、わたしは、軽いジャンプと共に『空を飛んだ』。
より高い場所から視れば障害物が無い分、より遠くへ転移できる。
疲れ具合から考えても、空間跳躍できる残り回数は決して多くなかった。
「…………」
樹の先端よりも更に高く飛び、わたしはふと直下を見てみた。
自分が成した、殺害現場を確認する。
眼下の『罪』を、自らの瞳に焼き付けた。
――――その姿が、一瞬だけ、メリーのものと重なった。
わたしは……今のわたしは、果たして彼女の傍にいれるのだろうか?
そんな疑問が過ぎった。
――メリーを助けることはできる。
助けに行ったのに殺害なんてバカなことは絶対しない。
あんなのは、レミリアの揺さぶりに過ぎない。
もとの時代に帰り、学校生活に戻っても大丈夫だろう。
でも、それでも不安だった。
これから先のこと……未来の自分のことが信じられなかった。
わたしの、メリーに対する感情は、自分でも把握できていない。
殺意なのか、愛情なのか、友情なのか分からない。
正直に言えば、知りたくもなかった。
わたしは、ただ彼女の傍にいたいだけだった。
――そして、それが最大の問題だった。
『メリーを殺したりはしない』。
それは、あくまで、いま現在の、この状態での話だ。
そう。時が経ち、わたしもメリーも年齢を重ね、何がしかの職につき、今ほど会うことも無くなり――『彼女にわたし以上に大切な人ができた時』に……わたしは我慢できるのだろうか?
たとえば、メリーが幸せそうに微笑み、ウエディングドレスを纏い、皆に祝福されて、『わたし以外の誰かと』生涯を誓おうとする姿を見ても、わたしの理性は耐えてくれるのだろうか……?
ただ黙って、見てることができるのか……?
――飛びながら、瞳を閉じる。
月夜や星々を視界から追いやり、幻視してみる。
具体的に状況を想定する。
夕暮れ時。
喫茶店。
わたしが記憶してるのよりも、もっと落ち着いた服装で対面に座るメリー。
見たことがない表情で、内側から輝く笑顔で「私、こんど結婚するんだよ、蓮子」と言われて、わたしは、わたしの手は、何をするだろう?
キチンと「おめでとう、良かったね」と言うことができるのだろうか。
手を、拍手させることができるだろうか……
『このナイフを握り締めて』ないのか……?
まだ、ちゃんと、『友達としての仮面』をかぶっていられるの――?
――――だけれど、その時、わたしが言うであろうセリフは、妙にくっきりと想像できていた、何度シュミレートしても同じ結論にたどり着く。
まっすぐに彼女を見つめ、わたしは言うだろう。
「あなたはわたしのものよ。誰にもあげない」
そして彼女を残らず所有するため、周囲の悲鳴も対面の不思議そうな顔も気にせず、手を振り上げ――
――ガクン、と何かに引っ張られた。
「!」
上昇速度が落ちる。
上へ飛べない。
『ほうら、やっぱりね』
視ると身体中に紅い運命線が絡み付いていた。
直下の殺害現場で、その中央で何かが脈打っている。
『貴女は所詮、どこまで行っても殺人鬼なのよ。ヒトの世に受け入れられる存在では無いわ』
――心臓、だった。
『拳大の臓器』が鮮血を撒き散らし、鼓動を繰り返している。
停止した肉隗の中で、それだけが動いていた。
血潮が紅い旋風に変化する。
肉隗を巻き込み、風は大きく球状にわだかまる。
そして唐突に、一点へ収束したかと思うと、
――――『爆発した』。
世界が一変する。
「!!」
反射的に覆った手足と身体をすり抜け、どこまでも紅く紅く塗り変えられる。
まるで羊水の中。
誰もが忘れ、誰もが確実に見た、『生まれる前の世界』。
確実に違う世界だ。ここは私が知っている場所では無い。
どこか別個の場所に囚われたことが分かった。
『――
告げられた言葉は宣告だった。
『――貴女はここから逃げられない……』
ぐいっ! と身体が急激に下降する。
引っ張られる力が増加していた。
ナイフを振るい、運命線を斬り裂くけれど間に合わなかった。
地面に凄まじい速度で叩きつけられる。
「ッ!!」
激痛が津波のように襲い、思考や意志を破壊した。
声さえ上手く出せない。
のたうち回ることすら出来ない。
呼吸をするのにも、しばらく時間が必要だった。
歯を食いしばり、わたしは精神力を振り絞ってなんとか糸を裂き、周囲を見渡した。
そこは――――すべてが息づいていた。
生命が、馬鹿らしいほど満ちていた。
樹は揺らめきながらわたしを威嚇し、水は紅く逆流しながら咆哮し、空気はねっとりと体力を奪う。
影は紅色、光も紅色。巨大な紅月が照らし出す、その濃淡だけで世界は描かれた。
先ほどの肉隗は既に無く、レミリアは元の形を取り戻している。
口も開かずに彼女は言った。
『ここが終着よ』
発する声に、妙なエコーが掛かってた。
『殺人鬼である貴女の終の住み家に、とても相応しい場でしょう?』
――本当に、そうなのかも。
一瞬だけ、思った。
これだけ生に溢れた場所ならば、わたしがいくら殺しても殺し尽くせないだろう。
そして、わたしと同じくらい歪んでいる。
平凡な、あの昏い街での日々よりも、ここの闇は懐かしく、また共感できる。
「――――」
だが、今はナイフを構える。
すべきことがあるのだ。
膝に力を込めて立つ。それだけで、視界が面白いくらいに歪んだ。
レミリアは無表情のまま、一抱えもある光球を放った。
それはゆったりと分裂を繰り返しながら、わたしに迫る。
当然、避けるが、その光球は、一定間隔で白く小さな光弾を残していた。
避け終ったわたしに向け、それらが揺らめくように近づいて来る。
身をかがめることで回避したが、すぐに次の弾線が迫る。
間に身をすべり込ませる。
更に次が迫る。
徐々に速度と密度が高まった。
減少する素振りは一切無く、際限なく増え続ける――
「くっ!」
このままではジリ貧になるのは目に見えていた。
わたしは強引にレミリアへ接近した。
無謀な動きは傷を増やした。脇腹と太ももと肩に光弾を喰らう。
それでも前へ進み、マネキンのように突っ立っている彼女を攻撃範囲に捉え、今度こそ心臓を狙ってナイフを突いた。
「!?」
瞬間、レミリアは、蝙蝠の集団に姿を変えた。
羽音を響かせながら黒く散華し、ナイフは空気だけを斬る。
蹈鞴を踏みつつ、見渡した。
上下左右のどこにもいない。紅の異界だけが満ちていた。
前方から紅い光球が迫る。
わたしは避けながらも、必死に探す。
どこにもいない。
どこにも『視え』ない。
それどころか――バサリバサリと舞う蝙蝠たちが、一斉に光球へと変化した。
拡散していた彼らは数十以上の弾幕と化し、わたしに向かって飛翔する。
必死に回避し、弾幕をナイフで防ぎ、あるいは斬り裂き、爆砕させる。
高密度な攻撃をなんとかやりすごし、荒い呼吸を繰り返している時――
いつの間にか同じような姿でレミリアが立ち、わたしを見ているのを発見していた――
+++
――――それからの出来事は、本当に悪い夢でも見ているみたいだった。
出現するレミリアを幾ら斬りつけても――心臓を刺し貫いても――蝙蝠へと解け、光球に変化する。
その度にわたしはあちこちを傷つけられる。
時間操作を使用しての連撃ですら通用しない。
どういう作用なのか、斬った部分から蝙蝠化してしまうのだ。
ならば離脱しようと空間転移を行なっても――なぜか『同じ場所に』出現してしまう。
どこを移動先に指定しても変わらなかった。
アリジゴクの巣にでも嵌った心地だ。
攻撃は無効化され、逃げ出すこともできず。ただ怪我だけが増えつづけた。
状況は、絶望的としか言い様がなかった。
わたしの理性は既に「諦めろ」と告げている。
けれど、わたしは必死で隙を捜した。
『あの未来』を、決して認めるわけにはいかなかった――
「アぁあああッ!!」
接触しそうになる光球を斬りつけ、破壊する。
既に何十回目か、何百回目の作業なのかは忘れた。
斬り裂く度、異界が白に染まった。
続いて迫る小さな光弾を避けるため、膝を軽く曲げ、ステップを踏む予備動作を行なう。
「!」
――動けない。
半身分だけ移動したところで、強制的に停止させられた。
左足首を『掴まれてる』。ガッチリと、枝が絡んでいた。
樹が嬉しげに幹を揺らしてる。
目の前には弾幕塊。
ナイフを振るうおうとするが、一度崩れた体勢からでは間に合わない。
閃光と衝撃が炸裂した。
肉が爆ぜ、焦げ臭いニオイがする。
まるでわたしの身体を太鼓に見立てた乱打だ。
一時も休まることなく攻撃は続けられた。
服は大半が破け、身体を隠す役目だけしか果たさず、ネクタイは途中からすっぱりと切れ、帽子は何とか頭に乗ってるだけだった。
もちろん、身体はそれ以上の被害を受けている。ボロボロもいいところだ。
連打が終わった時、わたしは……なんとか、かろうじて立っている状態だった。
口から血と歯の混じった唾をゆっくり吐く。
崩れそうな膝を叱咤する。
――すぐ傍で、気配が生じた。
わたしは反射的に攻撃を繰り出した。
それは、『受け止められた』。
いままで突っ立って、わたしの攻撃を受けていただけのレミリアが、はじめて動き、月製ナイフの動きを封じていた。
「このナイフ、邪魔ね」
言って彼女は力を込める。
抵抗は一瞬だった、あっという間に月製のナイフは『へし折られた』。
あまりの事に言葉を失くす。
続いてレミリアは手を上に掲げた。
紅い光が集まり、形を得る。
それは槍のようにも見えた。
「その足も、邪魔よ」
彼女は全身を使って振りかぶり――
「――ッ!!」
一歩だって、動くことは出来なかった。
大腿骨を砕き、槍は右足を貫いた。
まだこれだけあったのかと驚くほど、膨大な量の血が吹き出る。
ヤジロベエじゃあるまいし、一本足で立ってはいられない。
わたしは砂利の上に倒れた。顔を強打し、全身が打ち据えられる。
血の味が、口中で広がった。
顔を上げると、レミリアがもう一本、槍を構えていた。
それは、当たり前のように左足を貫く。
痛みで狂いそうな頭に命じ、ただレミリアの方角を見る。
見つめ、見据え――そして『視る』
右手の人差し指が反射的に動き、
――カシャリ――
という音が聞こえた気がした。
部分跳躍はレミリアの頭部を吹き飛ばした。
残りの身体が蝙蝠へと散華する。
当然、それらは光球と化し、わたしを襲う――――
「!」
立つことが出来ない状態では、回避運動を行なうのは不可能だった。
死神の掌の冷たさ感じながら、わたしは必死で転げまわる。
もちろん、この程度で避けきれるはずが無い。
「アぁあ!!」
わたしは迫る紅球に、『右手を叩きつけた』。
どうせ役に立たないのだ、こんな使い方ぐらいしか思いつかない。
でも、それは失敗だった。
痛みで意識が遠のき。吹き飛ばされる。
そして、移動先での回避がまるでできない。
攻撃は、容赦なくわたしを襲った――――
+++
右手はあのたった一度の防御で、炭化しきっていた。
四肢のうち、三つまでもが破壊されてた。
繋がってる身体も、似たようなものだ。
無事な部分を捜すほうが難しい。
口から吐きだされる荒い呼吸が、まるで臨終間際みたいだった。
たぶん、実際にそうなのだろう。
いま死んでないことは奇跡でしかなかった。
わたしは、川原に転がっていた。
紅い空を、ただ見上げてた。
その向こうに星空が覗いてる。
多少のズレはあるが、そこには夜空があった。
足音が近づいて来た。
顔を強引に向けると、レミリアが相変わらず偉そうな、王様か皇帝の如き歩みで近寄ってた。
「くっ……」
強引に顔を向ける。
ただそれだけで身体が軋んだ。
たとえ無駄でも知るもんか、何度でも『部分跳躍』を行なってやる。
無造作に歩く標的を睨みつけ、その姿を『視る』。
ファインダーを覗く感覚で、標的を視界に収め、指を自然に、意識よりも早くシャッターを……
――ばすんッ! と、異様な音がした。
「――ッ?!!」
突如、電源を切られたかのように、目の前が真っ黒になった。
身体すべてに与えられた苦痛に倍するものが、わたしの両目を襲う。
眼球を内側から炎で焙られたような、通常ではありえぬ痛み。
のたうちた回りたいところだが、わたしの身体は動かない。
口からおかしな音だけが漏れていた。
「馬鹿ね……」
レミリアの声がした。
「ニンゲンである貴女が、限界以上の力を出そうとすれば、当然、そうなるわよね」
わたしは、言葉を返すことさえできない。
目が開いているはずなのに、何も見えない。
『世界を捉え』られない。
手足は動かず、転移もできず、ここから動くこともできない。
攻撃手段のナイフと部分跳躍は既に無く、移動手段の両足や転移も無く、攻撃を回避するための足すら無い。
絶望的としか言い様がなかった。
なにせ、立つことさえ不可能だ。
そんな救いのまるで無い心境の中、
メリーのことが、ふと思い浮かんだ。
「滑稽で、そして憐れだわ、貴女……」
その表情が、動作が、泡沫のように浮かんだ。
博麗神社で、握り締めた手の感触。
儀式場で掴めず、ただすり抜けた手の温度。
――生贄を捧げる場でのメリー。
あの場でしようとしていた行為。
吠える。
ただ吠える。
焦燥が、わたしの意識を灼いた。
激怒が、身体中を駆け巡った。
自分が、許せなかった。
こんなところで倒れている自分自身を、殺したいほど憎悪する。
匍匐前進をしようと足掻く。
左手を地面に打ち込み、身体を引き寄せようとする。
ほとんど前には進まなかった。
血が流れる。
涙が流れる。
まるでナメクジにでもなったみたいだ。
「――やめて」
レミリアの声がした。
知るもんか。
あんたのことは、もう気にしてられない。
それよりなぜこんな速度しか出ない。
なぜわたしの目は見えない。
なぜわたしは今すぐメリーの元に行けない!!
「私の従者が、醜く、無駄な行為をしないで!」
すぐ傍で、着弾音がした。
身体をメリーのいる方向へ、とにかく進ませる。
弾が、段々と近づく。
その衝撃で左右に揺さぶられた。
「貴女、そのままだと死ぬわよ! 諦めなさい、咲夜ッ!!」
一際おおきい衝撃がして、わたしは宙を舞った。
数瞬だけの無重力の後、地面にバウンドしながら叩きつけられた。
回転を繰り返し、仰向けに横たわる。
「あ――」
レミリアの顔が見えた気がした。
泣いている、ように見えた。
ぼやけた視界が、復活しつつあった。
そして、
背後の星空が見えた。
「――――――……!!!」
意識が、凍った。
背中が総毛立つ。
自分が見ているものが信じられない。
なにかの幻想だと信じた方が、まだマシだった。
レミリアを見る。
その位置関係を知る。
『その場所にいること』を知った。
身体はいまだ、立つことさえできない。
わたしは混乱する意識を叱咤し、『空間跳躍』をするために集中する。
「!?」
両目の中に、針が生成された。
途端に視界が暗く染まり、『空間を捉える』ことができなくなる。
ここからの移動が――『空間跳躍』ができない!
方法が分からない。
手段が思いつかない。
「……だ――」
「――」
いやだ!
ちくしょう、どうして……っ!
「ああ、そうだ――――その通りだ!」
「咲夜……?」
わたしは夜空を見上げる。
紅い空間の隙間から、残酷な現実が覗いていた。
血を吐く思いで、わたしは叫んだ。
「ああ、そうだ! わたしは間に合わなかった!!!」
星時計が、音を立てて『重なった』。
寸分の狂いも無く、『その時刻』を示す。
わたしに与えられていた時間がすべて終わる。
――金色の光柱が、天を貫いた。
レミリアが訝しげな顔をした。
わたしの頬を涙が流れる。
永遠のような一秒が過ぎ――
腹に堪える轟音と共に、光壁がギロチンの速度で落とされた。
紅い世界が真っ二つに両断される。
蠢く樹も遡る川も紅月なにもかも、ガラス千枚以上の破壊音を響かせて消失した。
直下にいたレミリアは、高速スクリューに巻き込まれたかのように、微塵も残さず砕かれた。
壁はその下にある全てを根こそぎ破砕した。
紅い世界が元の風景と混じり合う。
代わりに出現した光壁は、左右と上方の彼方まで、わたしが認識できる範囲よりも更に広かった。
黄金色に輝いて、ひとつの異世界を形作る。
その結界を、わたしは見てた。
輝き、揺らめく壁は、確かにキレイだった。
魂が奪われそうなほど、キレイだった……
それは紛れも無く、