風は無い。
だが、空気ではない何かが動いている。
音は無い。
だが、聞えることのない音で満ちている。
矛盾を矛盾として肯定する、特異な世界。
騒がしくも静かに、慌しくも静謐に、冥界・白玉楼の時間は過ぎていた。

「ねえ……」
西行寺幽々子が喋ったのは、この日、初めてだった。
それまでずっと何かを考え込んでいた。
幽霊でありながらも、頭の中は常に春で彩られてる彼女にしては珍しい。
どれだけ珍しいかと言えば、どこぞにいる吸血鬼の妹が外で遊んでいるくらい珍しい。
つまり、ここ495年くらいは無かった事態だ。
話しかけた相手はこの屋敷の庭師にして警護役、魂魄妖夢だった。
半人半霊な彼女はかなりホッとした。
なにせ、朝から絶えることなく見られてたのだ。
それも、何か獲物を狙う目で。
庭を整えていた二本の刀を止め、妖夢は振り返った。
「はい、何でしょうか?」
背筋を伸ばし、自分を落ち着かせてから答えた。
幽々子の真剣な様子など、妖夢が憶えている限り見たことが無かった。
紅白と白黒とメイドが春を取り返しに攻めに来た時でさえ、その笑みはなくならなかった。
珍しさで言えば、どこぞの紅魔館にいる吸血鬼が、人間の血をすべて飲む回数と同じくらいだ。
つまりは、いままで一度も無い。
「それ……」
白い、血のまるで通ってない指が『それ』を示した。
「?」
一瞬、何を指しているのか分からなかったが、すぐに分かった。
「これ、ですか?」
半人半霊である証。彼女からピョコンと伸び出てる魂魄だった。
大きさはバスケットボール大。真っ白でツヤツヤしてる。
「うん、それ」
「これがどうしたのでしょうか?」
目障り、などということは無い筈だ。
これはもう生まれた時から妖夢に付いてきてる。
いまさらになって邪魔に感じることはお互いないだろう。
しかし、幽々子は満面の笑みを浮かべて告げた。
「貸して」








          魂魄妖夢の魂魄の行方








「ねえ、いいでしょう?」
「だ、駄目です!」
茫然自失の後、妖夢は叫んだ。
「ケチねえ」
口を尖らせてる。
「けちとかそういった問題ではありません!」
幽々子の要望は、妖夢の感覚で言えば「『のーみそ』いらないから『かんぞー』貸して」と頼まれているようなものだ。
「だって、無くたって不自由はないでしょう?」
「そんなことはありません」
「う〜ん、例えば?」
「え」
「だから、困ることの一例」
「え、えーと、それは、ですね」
「うん」
首をコクンと一つ振る。
「つまり……」
「うんうん」
二つ。
「その……」
「うんうんうん」
三つ。
「あの、えと……」
「うんうんうんうん」
幽々子は何度も頷いてた。
意味も無くかなり楽しそうだ。
反対に妖夢はうろたえ、冷や汗を流してる。
ちょっとしたプレッシャーだった。
無くて困ることなど、考えたこともなかった。
いつでもすぐ傍にあるものであり、あって当たり前のものだったのだ。
「あ! そうです! これは長い事、離れられないんです!」
名案とばかりに明るく告げた。
妖夢の半身であり魂なのだ。長距離・長時間は離れられないのが道理だった。普通の人間が魂なしで長く生きられないのと同じ理屈である。
けれど、その考えは、幽々子の次の一言が打ち砕いた。
「あら、そのぐらいならなんとかなるわよ?」
「え――」
「伊達に長い間、幽霊やってるわけじゃないもの、その程度の無理はきくわよ」
無い胸を自慢気に張っている。
「え、では、その……」
咄嗟に言い訳を思いつけない。
何かないかと探してみるが――
「それじゃ、借りてくわね、貴女の魂♪」
禄に話も聞かずに言い切り、妖夢の近くでふよふよ浮いてたまん丸の物体を掴み取った。
そのまま、スキップでもしそうな雰囲気で、その場を離れる。
少しの躊躇もありはしない。
「あ、ああ! 幽々子さま! そんな無体な!」
ずる、っと大切な何かが抜け出すのを妖夢は感じた。
とてつもない脱力感と喪失感が満ちた。
体温は急激に下がり、唐突に夜が訪れたように視界は暗い。
足はふらつき、背骨はコンニャクに変化する。
無理も無い話だ。
幽々子が掴んで行ったのは、紛れも無い彼女の『半身』。彼女の魂そのものなのだから。
急いで取り返そうとしたが――
「うーん、いい手触りね」
「うにゃう!?」
満足そうに、幽々子は真っ白な魂を撫でた。
それはそのままダイレクトに妖夢の『何処とも表現できない部分』に伝わった。
自分の皮膚すべての何処とも言えない部分。
無理に言葉で表現すれば『心臓の左心房内側を、冷たい指で触られた感覚』、だろうか。
脳裏には鮮やかに幽々子の指が、その触感からなめらかさまで克明に伝わった。
怖さと嬉しさと良く分からない感情の混じった、奇妙な情感が彼女を圧倒した。
立ってることは出来ず、その場で片膝をつく、額には汗が浮き出て、眉はギリギリ苦しそうと言える角度を描いていた。
ちなみに、この間、幽々子の手は止まっていない。
「ゆ、幽々子さま……」
先ほどよりも、かなり小さな声で妖夢は懇願する。
「やはり駄目です、こ、これは色々な意味で危険……」
「ん?」
幽々子が振り向くのと、手は軽く力が込められたのは同時だった。
無意識の、ほんのわずかな力でしかなかった。
「ひっ!」
でも、それは、なんと言うかクリティカルな力加減だった。
先ほどの例で言えば、心臓が収縮しきった瞬間に、更にやんわりと握られたようなものだ。
顔が真っ赤になるのも仕方が無いことだ。
「どうしたの? なんか顔が赤いわよ?」
「な!? うっ!?」
そう不思議そう言いながらも、彼女は更に手元の丸くてふわふわな白いものに頬をすり寄せてた。
妖夢はもはや立っていることさえできない。
しばらくは剣を地面に突き立て、なんとか耐えてたが、結局は力尽きたように横たわったてしまった。
ビクンビクンと、身体は震えてる。
さすがにこの異常事態を不審に思ったのか、幽々子がトコトコと近づいた。
「妖夢? 大丈夫?」
心配そうな顔の下では、妖夢の魂魄がちょっと力強めで抱きしめられていた。
距離が近くなったため、感触はよりはっきりと分かるようになる。
つまりは感度・レベルアップ。
「はうっ!?」
エビ反りに痙攣した。
ごろごろと転がり、すこし移動した先で元に戻る。
何とか耐えられるレベルになったのだ。
グッタリと倒れ伏しながら、荒い息をついている。
そこに近寄る、より心配気な幽々子。
「妖夢?」
「はうっ!」
「ねえ……」
「あうっ!」
「ちょっと……」
「みょんっ!!」
エビ反りに跳ね、移動する妖夢と、近づく幽々子のパターンがエンドレスに繰り返された。
(このままでは身が持たない!)
妖夢はそう判断した。
「ゆ、幽々子さま! 私は大丈夫ですから!!」
恥も外聞もなく、距離をとってから叫んだ。
その顔や服は土であちこち汚れてる。
まるで、戦闘での敗北後だった。
「そう? でもさっきからちょっと変よ」
「こ、これは剣術の修行です!」
「そうなの?」
「はい!」
ヤバイ感覚に目覚めそうだった。などと言えば、このどこか浮世離れした主人が何をするかなんて目に見えてた。
暇を持て余してる猫の前に、瀕死の鼠を放り込むようなものだ。
窮鼠猫を噛むことさえできず、いたぶられるのがオチだ。
「ふーん、変わった修行ね」
「先代に教えていただいたものです」
「あれ? そんなことしてるの見た事なかったけど?」
「い、一族に伝わる秘伝の練習なのです」
「そなの」
「そうなんです」
無意味に断言した。
客観的に見るのならば、死人のように青白い少女が、嬉しそうに身悶えする球体を抱きかかえ、弄り倒してるだけである。
問題は、そうやって触るたびに妖夢の身体が痙攣してしまうことだけだ。
自分の身体を抱きしめて拘束し、耐えながら妖夢は言った。
「ゆ、幽々子さま、私は仕事がありますから、これにて失礼します……」
引きずるようにして距離をとる。
「そうなの? それじゃあ、お風呂にでも入ってくるわね」
変わらず魂魄をその胸に抱えながら、幽々子は歩いて行った。
お気に入りのぬいぐるみを抱えてるような様に、悪気など微塵もなかった。
実際、彼女は「妖夢って生真面目だから、あんなヘンな練習してるのね」くらいにしか思っていない。
それよりも、新しく手に入ったおもちゃの方が彼女にとっては重要だったのだ。


+++


「ふう」
妖夢は一息ついた。
呼吸を整え、額に浮かんだ汗を拭う。
ついでに服についた埃をはたき、放ったらかしな愛刀も回収する。
「…………」
そのまま、しばらく立ち尽くした。
心地よい風が、肌を通り抜ける。
森は相変わらず広大な様相を見せ付けていた。
空は快晴。
日差しが眩しい。
うららかな春の陽気とは、このことだろう。
口を引き結んだまま、彼女は自分の胸に手を当てた。
「…………」
とてつもなくドキドキしてた。
このままじゃパンクするんじゃないかと思えるほどだ。
幻想郷を走って一周したとしても、これほどの速度にはならない。
目を閉じ、考えてみる。
(幽々子さま……)
いま、妖夢の魂は彼女の手にある。
どうあっても取り返せず、幽々子の気紛れによっては殺されてしまうかもしれない。
妖夢の魂魄を、おもちゃ程度にしか思っていない彼女だ、不注意はいくらでも起こりそうだ。
(あ――)
怖い。
それはとても怖い。
自分の意志とは関係のない場所で、命が危険に晒されている。
それは、命を司る蝋燭を、他人の手に渡してしまったようなもの。
心臓を取り出し、相手がそれでお手玉をしている状態だ。
綱渡り以上の恐怖である。
なにせ、選択権が自分に一つもない。
ふらふらする。
不規則に血潮は脈打つ。
素直に立っていられない。
さっきと別の理由で力が抜ける。
脱力感よりも無力感だ。
額にまた汗が湧き出す。
でも――
(う……)
そのことを、心のどこかで喜んでいた。
あのどこまでも無邪気な主人が、自分の命を握っている。
何もできず、成す術は何ひとつ無い。
なにせ、傍に寄ることさえできないのだ。
取り返すことは不可能だ。
言葉での説得も、きっと無理だろう。
あの主人が、お気に入りの玩具を素直に返してくれるとは思えない。
打つ手なし。
できることは無い。
それなのに、それが少しばかり嬉しくもある。
対極図で、陰の中に陽があるように、恐怖と矛盾しない嬉しさが存在した。
「なにを馬鹿な」
自分にそう言い聞かせる。
あの浮世離れどころか、この世離れしてる主人が、妖夢の魂魄を見て「これって食べられる?」とか興味を抱いても一向におかしくない。
そんなロマンチックな要素など、入り込む余地はないはずだ。
頭を振り、正気に戻す。
中断していた伐採作業を再開することにした。
余計な事を考えるのは、身体を動かしていない時と相場が決まってる。
「すー、はー」
深呼吸をひとつ。
楼観剣と白楼剣、二つの剣を構え、心気を整える。
うるさい心臓はこの際、無視だ。
白玉楼にある木々、その全てを脳裏に思い浮かべた。
葉の一枚でさえ逃がさず、精密にシュミレートする。
妖夢の脳裏に、『白玉楼の庭』がくっきりと再現された。
現実と寸分も違わない。
枝ぶりや位置関係はおろか、葉脈の数さえ認識する精密さだ。
これは、彼女の努力の結実だった。
たまに発動する主の無茶な要求(例・西行妖を満開にしたい。幻想郷食べ歩きツアー開催しよう)をかいくぐり、彼女本来の仕事である『庭の手入れ』を抜かりなく、真剣にやり続けた結果、『冥界の俯瞰図』を思い描ける域にまで達したのだ。
生真面目さ一直線。
真剣さでは他の追随を許さない。
ただ立っているだけであるのに、妖夢の脳裏は凄まじい勢いでカロリーを消費し続けた。

……妖夢の前、ゆらりゆらりと落ちる葉、それが唐突に二つに分かれた。
遠くにある枝が同時に落ちる。
妖夢は抜刀していた。
目に見える速度ではない。
剣閃の残光だけが、一直線に奔っていた。
「ふぅっ!」
分かたれた葉は、更に二つに分かたれた。
別の枝が今度は四本まとめて落ちる。
葉は、とどまることを許されず、更に更にと分解された。
切先は音速を越え、木々は凄まじい勢いで整えられていった。
剣閃から溢れ出た弾幕さえも利用して、余分な枝を斬り整える。
弾それ自体でさえ、精密な軌道を描く。
それはまさに神業だ。
切断された葉は、もはや目に見えない状態にまでなっている。
妖夢が繰り出す剣閃の前、そこにゴミのような点が幾つか見える程度だ。
「ふっ」
テンポを上げた。
より鋭く、より疾く、より正確に技を繰り出す。
木々の間に剣閃をすり抜けさせ、両手を無尽に動かす。
普段なら補助に使用している魂魄が無いため、勘が狂うこともあるが、それでも、庭師としては破格の正確さと速度だ。
広大な白玉楼の森、その木々のすべてから葉は舞い上がる。
むろん、妖夢は目を瞑ったままだった。
「……む?」
ふと、彼女は不審に思った。
伐採作業は順調に続いている。
このまま行けば、幽々子がお風呂から出る前に終わるだろう。
頭の中のシュミレーションと現実は、同じ速度で進行してる。
研ぎ澄まされた聴覚と嗅覚が、状況を教えてくれるのだ。
斬られた青草の舞うにおい、剣が大気を切り裂く様子、多量の弾幕が打ち抜く感覚、あちらこちらで聞える木々の落下音――
それら『普通の音』に混じり、なぜか『水音』がした。
それは本当にすぐ傍、ごく近くで聞えた。
念のために目を開き、空を見上げるが、雲ひとつ無い快晴だ。
雨が降っているはずもなく、燃え盛る春の太陽しかない。
だが、先ほどから、『水音』は絶えることなく聞えている。
妖夢の五感が、どんな水滴も把握して無いのに、だ。
「これは……」
両手を止めないまま、思わず呟いた。
水気なんてまったく無いのに、音だけが豪勢に四方八方から聞える。
妖怪の類かと疑うが、その気配もない。
狐が嫁に来たというには、快晴すぎだ。
まるでチンプンカンプンだ。

――そうして、『その声』が響いた。
『んー、いいお湯』
「!!」
西行寺幽々子の声だ。
いまはお風呂に入っている筈の主の声だった。
体勢を思わず崩した。
剣閃が無軌道に乱れ、遠くの巨木に着弾する。
「幽々子さま!?」
手を止めて叫ぶ。
周囲には誰もいない。
遠くで倒れつつある巨木以外に動くものはない。
「あれ?」
気のせいかとも思ったが、それにしては余りにもリアルだ。
水音だって止まっていない。
木の倒れる轟音だってちゃんと聞えた。
「むむ?」
剣を両手に左右を睨むが、風が少しばかり吹いているだけだった。
「め、面妖な」
狐に馬鹿されたかのようだった。
もちろん、どれだけ注視しても八雲家の面々の姿は見えない。
『お風呂は広いのに限るわね』
声だけが続く。
水音も続く。
まるで、一緒にお風呂へ入っているみたいだった。
「――――!」
そして、妖夢は『その可能性』に気がついた。
(魂魄との接続が解けてない!?)
あの激烈な感覚が無くなっていたため、気がつくのが遅れた。
いくら遠くにあっても妖夢自身の魂魄なのだ。
音声くらいは聞き取ってしまうのだ。
幽々子の入浴シーンを、リアルタイムに感じ取っていた。
「こ、これは……」
覗き見であり、デバガメだった。
視覚は無く、音だけが聞える。
情報が制限され、なおさら禁忌の色が強くなる。
湯をまぜる密やかな動き、手ぬぐいが肌を移動する静かな音、唇へと吸い込まれる酸素。
浴室特有の反響音を響かせながら、幽々子の調子外れな鼻歌も聞えた。
「む、むむむ……」
妖夢の脳裏には、水滴のひとつが幽々子の肌を滑る様子さえ幻視できた。
意味も無く頬が熱い。
頭からは湯気が出てる。
(ぼ、煩悩退散、煩悩退散、喝!)
こころの中で唱える呪文も、その効力を発揮しなかった。
自分も幽々子と一緒にお風呂に入っているような錯覚を払拭し切れない。
広大な風呂場の隅で目をつぶり、小さくなっている自分、そして、中央で太平楽に四肢を伸ばしてる主。
そんな想像は、実は現実とほぼ変わらない。
妖夢の魂魄、彼女の半身はそこにあるのだから、妖夢自身が幽々子と一緒にいるのと等しい。
「く……」
桃色な魅惑空間を振り切り、彼女はなんとか仕事に戻ろうとした。
余計なことを考えないようにしたかったのだ。
まずは、普段通りに構えるが、何故か足に力が入らなかった。
自分の意志とは裏腹に震えてしまう。
両手にも、情けないほど力が入らなかった。
(こ、こんなことで心を乱すとは、先代に申し訳がない……!)
祖父にして師匠、いまはどこかを放浪してる妖忌だったら、この程度のことで集中力を失しないだろう。
――嬉々として覗こうとする可能性はあるが……。
(一重に、これは私の未熟さ故だ)
言い聞かせる。
暗示のように幾度も。
幽々子と一緒にお風呂に入るくらい何だというのだ?
そんなことで、いや、そんな時だからこそ、警護役を果たさなければならない。
同じく、庭師の仕事だって疎かにしていい理由にはならない。
ぶつぶつと自分を説得するが、そこに幽々子の声が、狙っていたかのように割り込んだ。
『さて、身体でも洗いましょう』
お湯が溢れる音がする。
同じく湯船に浮かんでいた『自分』が、転がっていくのも体感した。
タイル張りの上を、素足が歩く音。
魂魄を操作すれば、その肌にだって触れられるかもしれない……。
「すー、はー」
首を振り、再び深呼吸。
いまだ成しえていない、『無我の境地』へと自分を追いやる。
頭をからっぽにすれば、数々の煩悩も消え去ってくれるはずだ。
(慎重に、慎重に)
森の俯瞰図だけをこころに思い浮かべる。
身体を僅かに捻った。
最初の一刀こそ肝心だろう。
それさえ上手く行けば、あとは自分の身体が成すべき事をしてくれる。
幽々子の鼻歌が近くなっている気もするし、スポンジがこすれる音がやけにリアルに響くが、今はそちらを意識するべきではない。
目を静かに開き、鋭く踏み込む。
「はッ!」
爆発的な瞬発力を、ただ剣速だけに変換させる。
誰であっても、何であっても避けられない剣が――
『あら、あなたも洗ってあげるわね〜』
「!!」
暴発した。

――人鬼「未来永劫斬」――

そう、最初の一刀さえ決まれば、あとは妖夢の脊髄反射が勝手に技を発動させてしまう。
日ごろの鍛錬の成果が途中で止まることを許してくれない。
森を切り裂く剣閃が、何本も、容赦なく炸裂した。
木どころか大地を割り、修復不可能な傷痕を縦横無尽に刻み込む。
内臓を冷たい指で丁寧に洗われる感覚を味わいながらも、最後まで剣を振るってしまう。
幽々子が直接さわった為なのか、魂魄から伝わる情報はより明確になっていた。
わしゃわしゃと、隅無く洗われる様子が良く分かる。
消えそうになる意識の片隅で、泡だらけな自分の魂魄をなんとか逃がそうとするが、それすら捕まってしまう。
幽々子の、いたずらっ子を叱る声が最後に聞こえた。

『もう、逃げちゃだめじゃない〜』



+++



「う〜ん?」
西行寺幽々子は首を傾げた。
普段は白色のみの肌、それがお湯で桃色に上気していた。
お風呂は彼女の趣味である。
ただでさえ低体温な彼女だ。
冷え性のつらさは、なっているものにしか理解できない。
お気楽な幽霊にも悩みはあるものだ。
「ねえ、妖夢」
「はい」
「何をしているの?」
幽々子は外に出て驚いた。
なにせ、ついさっきまで完璧に整えられていた木々が、無残なまでの残骸へと早変わりしていたのだ。
巨人が鍬で耕した後の有様となっている。
そして、それ以上に不可解なのは、魂魄妖夢が全身白装束で正座していることだった。
背筋をのばし、床敷きから鞘、帯にいたるまでを白に統一した様子に、冗談の二文字は窺えない。
覚悟という物質を飲んだ者に特有の、頑迷なまでに迷いの無い顔をしていた。
蒼みがかった白色髪とも相まって、それは一種、凄絶な美しさを表現する。
妖夢の後ろにある残骸でさえも、それを演出する為の小道具に思えてしまうほどだ。
白一色の中、背景と同じ黒い瞳が、幽々子を見上げた。
「幽々子さま……」
「なに?」
「従者として、最初で最後の頼みごとがあります」
「あ、うん」
「どうか介錯をお願いします」
「かいしゃく? たしか、それって……」
「はい、切腹の手助けです」
「ちょっと、妖夢!?」
「仕えていた時間、私は幸せでした。どうか先立つことをお許しください……」
胸まで巻いたサラシを顕にし、妖夢は小刀を抜いた。
刹那の躊躇もなく、切先を自分の腹に向ける。
「御免!」
「こ、こらあ!!!」
間一髪、なんとか振り下ろされた腕を止めた。
「幽々子さま、後生です! どうか止めないでください!」
そのまま彼女を羽交い絞めにし、どうにか動きを止める。
ジタバタと暴れる従者に、それを取り押さえる主だ。
「お風呂に入っている間に何があったの!?」
「武士の情けです! 潔く散らせてください!」
「散るのは春の桜で充分でしょ! 妖夢まで散る必要はないわよ!」
「煩悩に負けた剣士なんて死ぬしかないんです!」
「妖夢、意味が分からないわよ!?」
「私は従者としても庭師としても警護役としても失格なんです!」
「はい!?」
「ちゃんと辞世の句も詠みますから!!」
「認められるわけないでしょ!」
「腹を掻っ捌いて詫びるしかないんです!」
「一体、どうしたのよ!?」
「後生です!!」
「ああ、もう!」

――顕現・死蝶霊――

幽々子の放った幻蝶が、妖夢の頭を強打した。
「あう……」
後頭部を抱えてる妖夢を見ながら、幽々子は明瞭に宣言する。
「なにがあったか知らないけど、勝手に完死人になるなんて駄目!」
「う、ですが……」
声をやさしいものに変え、ため息まじりに幽々子は続けた。
「あとね、ここで自害したって、普通に幽霊になって復活するだけよ」
「え……」
「わざわざ枕元で理由を聞くなんて嫌よ? わたし」
冥界では、気軽に成仏することさえできないのだ。

その後、泣いて詫び続ける妖夢を説得して、何が起こったのかをどうにか聞き出した。
つまりは、目の前の残骸と化した森は、妖夢が原因であるとのことだ。
「それで、どうしてそんなことしちゃったの?」
何よりも先に、理由を聞いた。
妖夢の生真面目さと有能さは、他ならぬ幽々子が一番よく知っている。
ついうっかり、などということが原因では起こらない筈だ。
「それは、お願いです、どうか聞かないでください」
正座したまま、地面に向かって妖夢は呟いた。
「……なんか顔が赤いわよ?」
「錯覚です!」
言い切る。
「そう?」
だが、まあ、話はわかった。
庭師が庭を破滅させてしまったのだ。
生真面目な妖夢ならば、自害する原因になるのだろう。
幻想郷の他の面々ならば、笑って逃げて忘れるだけだろうに。
「ふう」
思わず溜息をついた。
真面目すぎると心中で嘆く。
「結局、この森が理由なのよね?」
指差しながら聞いた。
「はい……」
「なら、森が元に戻れば、完死体になることもないわよね?」
「え、はい。ですがそれは……」
とてもじゃないが、不可能であると思えた
ここまで成長させるには、多大な時間と根気が必要だ。
いかなる庭師であっても、植物の生長を促進させることはできない。
『元に戻す』など、絵空事としか思えない。
口ごもり、言いよどんだことから、幽々子は、妖夢が信じられない気持ちを察した。
長い付き合いだ。
それぐらいのことは分かる。
幽々子は説明を始めた。
「あのね、妖夢、ここはどこ?」
「え、冥界ですが……」
「そう冥界ね、つまりは死んだもの達が集まる世界」
「ええ」
今更の話だ。
幽々子自身、完全な幽霊であるし、妖夢だって半霊半人だ。
死したもので満ち。生きている人間がただでは入り込めない場所の筈だ。
「それは、ここに生えている木々だって例外じゃないわ」
「え?」
「だから、ここの森だって『死んで』いるのよ」
妖夢は理解できない、といった顔をしていた。
「木々の亡霊、って感じかしらね」
「それは……」
「ね、どうにかなると思わない?」
「あ……」
答えられなかった。
それは、もう、彼女の認識の外にある。
幽々子は森へと向き直った。
「ね、妖夢、見ててね」
続けて、宣言する。
「わたしは、『死を操る程度の能力』を持つの――」
彼女は、胸の前で両手を握った。
息を吸い込む。
服が、かすかに動く。
口に微笑みを浮かべながら、何かを『ぎゅう』っと凝縮させた。
光が吸い寄せられ、集まった。
月の光を連想させる、鮮烈だが優しい光。
息をはき、
彼女は、手を開いた。
そこには一匹の、輝く蝶がいた。
十指が作る檻の中、震えながら、なんとか羽ばたこうとしている。
幼い、生まれたばかりの蝶。
彼女は両手を上へと掲げた。
しばらくの後、
その一匹は空へと羽ばたき。
続いて大量の輝く蝶が、噴水のように現れた。

――死蝶「華胥の永眠」――

残骸と化した森に、幻蝶がふわふわと遊ぶ。
頼りなげに揺れながら、あちらこちらへと、三次元の音符といった様子で羽ばたく。
「…………」
妖夢は、ただ呆然と見てた。
輝く蝶を纏った主に、意識と魂を抜かれていた。
幻蝶の量はとどまる事を知らず、幽々子の両手から噴出し続けている。
春の陽光にも負けずに輝き、白玉楼の森を丸く包む。
それぞれの蝶は、やがて、手近な木へとたどり着き、その中へと溶け込んだ。
溶け込んだ木は、最初は何の変化も見せなかったが、ある一定の時間がたつと、『シャン――』と、音を一つ立てて元に戻った。
切り裂かれた幹も谷と化した地面も関係なく、まるでバネ仕掛けが内臓されていたかのように、『シャン――』と音を響かせ、木々は復元する。
森全体から鈴の音が共鳴し、壮大なまでの神聖さを鳴り響かせる。
「…………」
妖夢は、口を開くほかなかった。
あれだけ無残だった森は、もうほとんど元通りだ。
さすがに地面までは直せなかったようだが、それでもここまで復活させられれば上等だろう。
「信じられない……」
思わず呟く。
幽々子は、最初の幻蝶を手に回収していた。
木々にはもう、どんな刀傷だってありはしない。
妖夢は感嘆と畏怖の混ざった視線を主に向けた。
普段、どれだけ能天気に見えても、やはりこの人は白玉楼の主なのだ。
その力は絶大かつ圧倒的だ。
再び無い胸を自慢げに張る。
「どう? これで完死人になる理由はないわよね?」
「は、はい!」
大声で返事した。
喜色満面の笑顔も、もれなくついてる。
目は尊敬の念でキラキラと輝いていた。
幽々子は、そんな様子に気がつかず、自分の体を見下ろした。
「う〜ん、身体、冷えちゃったわね……」
「あ……」
桃色だった肌は、普段通りの白色に戻っていた。
『死』を操る反動としては軽微なものだが、それでもついさっきまでの健康的な様子を思うと、一挙に瀕死の重体となった印象を受ける。
「もう一回、お風呂に入ってくるわ」
「幽々子さま……」
「ん?」
「行ってらっしゃいませ!」
直角に身体を曲げる。
さながら親分を見送る子分だった。
手を振りながら、のんきに幽々子は歩く。
その後姿から、白玉楼を復活させた強大さを窺い知ることは、まるでできなかった。

「ん〜」
少しばかり歩いた後、幽々子は唐突に立ち止まった。
「あの……?」
「あ、そうだ」
ピンと人差し指を上げる。
「うん、忘れてた」
身体ごと振り返って告げた。
「妖夢、あなたに罰を与えるわ」
「!」
背筋を伸ばした。
意識を覚醒させる。
そう、自分は罪を犯した。
たとえ木々の傷跡が癒えても、罪そのものが消えたわけではない。
どんな罰であっても受け入れようと、覚悟を決めた。
しかし、幽々子はいつものようにふわりと微笑み、告げた。
「わたしの背中、洗ってくれる?」
「え、は、はい……」
その程度でいいのか? と思った。
「いつも、背中のまんなかあたりが上手に洗えないのよね」
「そうなのですか?」
「うん、身体が硬いのかしらね」
「あ、着替えてきますね」
白装束のまま、主の背中を流すわけにもいかない。
主の背中を流すため用の、いつもの湯浴み服に着替える必要がある。
「あら、必要ないわよ?」
「え……」
「妖夢も裸になるんだもの、服の着替えなんて要らないでしょ?」
「な!!」
衝撃の言葉だった。
反射的にのけ反り、数メートルの距離を後退する。
服を着たまま幽々子の背中を洗い流す、この程度ならしたことはある。
けれど、裸のまま一緒に入ったことは一度だって無い。
「ゆ、幽々子さま? あのそれは……」
「いや、なの?」
「いえ、嫌ということではなくてですね、従者の分を弁えず、主と一緒の風呂にはいるのはいささか問題があると……」
「え、大丈夫でしょ?」
幽々子は心底、不思議そうだった。
まるで「地球は平らなんです!」と言われたような顔だ。
こちらは当たり前のことを言ったのに、相手が常識外の返答をした時の対応だ。
そして、決定的な一言を放った。

「だって、さっきまで一緒に入ってたじゃない」

「…………」
「さ、妖夢、さっさと行くわよ」
引きずられながら、妖夢はポンコツな頭を起動させ、なんとか理解しようと努めた。
(え、えーと、あれ? おかしい……)
幽々子は魂魄と感覚が繋がっていることを知らない、はず。
なのにどうしてか「一緒に入っていた」と云う。
「あれ? あれれ?」
調子外れな鼻歌が聞こえた。
かつて無いほど楽しそうだ。
こんな楽しそうな幽々子は、どこぞのマヨイガにいる隙間妖怪が徹夜してるくらい珍しい。
つまり、地球誕生以来、いままで誰一人として見た事が無い。
妖夢の頭が、ようやく稼動した。
「幽々子さま!? ひょっとしてワザとだったんですか!!?」
「ん〜、なんのことかしら」
「魂魄のことです!」
「なにを言ってるのかさっぱりだわ〜」
「あ、ああ、そういえば『途中から音が聞こえた』んだ! 考えてみれば、これはおかしいです!」
「なんの話かしら〜」
「廊下を歩く音も着替える時の音もお風呂の扉を開ける音もしなかったのに、どうして突然、湯船の中の音だけがしたんですか!? 途中の音を聞けなかったのはどういう理由ですか!!」
「不思議不思議♪」
「幽々子さま! 真面目に答えてください!」
「ん」
立ち止まる。
二人は相対した。
「ひょっとして、私と魂魄との繋がりを、途中で強化しませんでしたか? 多分、お風呂に入ってる最中に!」
幽々子が魂魄と妖夢の関係に気がつき、接続を強くした。
そう考えなければおかしい。
遠くなればなるほど接続は弱くなるのに、終着地点で唐突に強くなる筈はない。
それはトランシーバーが99mまでは弱くなり続け、100mになった途端、電波良好になるようなものだ。
「あはは〜」
「ちょ、笑って誤魔化さないでください! ちゃんとした返答をお願いします」
その気迫を前に笑みを消し、彼女は真面目な表情で見つめた。
居住いを正してから真剣に、さながら白玉楼の重大な行く末を話すトーンで告げる。
「妖夢、心配しないで。『予習』はもう完璧だから」
ぜんぜん答えになっていなかった。
というよりも、これからの意気込みを語っただけに過ぎない。
胸の前で握り締められている拳からも、それは知ることができる。
彼女は怒るよりも先に、『これから起きるだろう事』に戦慄した。
「私も洗うつもりなんですかー!!?」
「かたっぽだけ洗ってもしかたないでしょ?」
やっぱり、両方ともすみずみまで洗わなきゃね、と呑気にのたまう。
「幽々子さま! 私は道を踏み外すつもりはないんです! 百合な世界にだけは行っちゃいけないと師匠も常々いってました!」
「だいじょうぶだいじょうぶ」
「ぜんぜん安心できません幽々子さま! あと、目がなんか怖いーーーー!!!」


妖夢の叫び声は、白玉楼の中へと虚しく吸い込まれた……


















魂魄妖夢の魂魄の行方

改題

→魂魄妖夢の『妖夢の』行方。


実は、魂魄の行方どころでは無かった模様……。