夢を見てる。
夢を見てる。

どこであるのか、
いつなのか、
わたしが誰なのか分からない。

たいせつなものが、本当にたいせつなものがあったのに、それが思い出せない。

思い出せるのは最初だけ。
始原。
はじまり。


わたしが誕生した、その瞬間――





残るもの 残されるもの9

魔王の事後





「(む……?)」
目が覚めた。
寝覚めはいい。
わたしにしては珍しいことだ。

良く分からない場所に漂っていた。
ぷかりぷかりと、なかなか心地いい。

見た目としては『まっか』。
というより、それ以外の色がなかった。
どろり、とした粘性のある水。
血みたいだと連想した。
「(ここは、どこだ?)」
ためしに手を動かそうとした。
動かない。
指先が、ほんの少し動いた程度だ。
「(む?)」
といよりも身体全体が動かない。
拘束されているわけではない。
先ほどから浮かんでいるのだ。
揺らめいているのに、拘束もなにもない。

でも、この浮遊感はすわりが悪い。
明確にできるものが何もないのだ。
生きているのか死んでいるのかさえ、ちょっと分からなかった。

「どうだ」
「はい、順調です」

音が聞こえる。

「ふん……醜いな」
「仮にも人類の天敵、そのコピーですからね」
「……これは、こっちを観察してるのか」
「まさか。まだ脊髄だって生成されてないんですよ」
「だとすると反射か、これは」
「そうですね、瞳孔が収縮してるのも『正しい反応』です。計画は順調ですよ」
「……そうか」

目の前の、よく分からない『もの』が音を発していた。
意味はわからない。
上の方に開いた『穴』から、特有のリズムが流れてる。
水音しか聞こえてなかったので、耳に珍しかった。
ただ、それは心地いいものではなかった。
「(おいしくない……)」
そんなことを思った。
ひどい苦味とすこしの酸味が混じった、ぴりぴりとする感触。
その『音』は、そんな印象だった。



「補完計画の要だからな、大事にしろよ」
「ええ」








――わたしは誰なんだろう?
――わたしは『何』なんだろう?

思い出せない。
思い出せない。

わたしは、ただ周囲を観察し、『味わった』。
それ以外にできることは無かった。

色々な人が、色々な味を出した。

個人差はあるものの、大別して二つだ。

ハッカの爽快と灼熱が混じったもの。
――わたしを見ている相手が、いちばん出す『味』。

濃厚な蜂蜜とフラクタクル模様の不安定さ。
――次に多い『味』

どうやら最初のは恐怖、次のは優越感というものらしい。

そんなものが、わたしの周りで飛び交っていた。


――――あたたかさは、どこにも無かった。







意識が消え、また戻った。
よく分からない。

何をしていたんだっけ?

別のところにいる、みたいだった。
わたしは赤い水から、半分だけ出されていた。

動こうと、思った。
今度は、まったく動けなかった。
身体にも何かが巻かれている。

必死に動こうと思うのだけど、それを伝達するのがまるでない。
手足は確かに見る事ができるのに、それらを切断されたみたいだった。

これは、酷い。

考えることしか出来ない。

どうにか目だけは動かせるようなので、周りを見渡してみることにした。

無機質な四角。
なんともまあ、面白くないところだ。

目が動くたびに、周囲の『もの』たちが慌てた。

――ソンナバカナとか
――テイシプラグはどうしたとか叫んでる。

ちょっと面白い。


――――真下に、もの凄く印象的な何かがあった。
視線を動かしてみる。

ヒトがいた。
目が合った。


「(!)」

なぜか、その瞬間、わたしは『怖い』と思った。

あんな小さな『もの』。
わたしを傷つけるなんて、到底おもえないほどに、か弱い存在。
それなのに、そのはずなのに――

――こわい。

たぶん、その目のせいだ。
顔自体は、笑顔と呼ばれるものだ。
口に下弦の月を貼り付け、まっすぐにわたしを見てる。
ぴったりとしたスーツの上から白衣を重ね、どうどうと立っている。

目だけが、違った。
幾万の感情を煮詰め、それを理性という形に収めた瞳。
くろいくろい、どろりとした、その色。
わらってはない、突き刺すような目。だけど、奥には歓喜があった。
強烈なまでの意志が叩きつけられる。

――たのしい。
―タノシイ。
―――愉しい。
とても、とても、とても、楽しい。
―――何故かって?
それは――

「(う……)」
反射的に後ろへのけ反ろうとした。
当然のように身体は動かない。
自分の意志で目を外らせるはずなのに、どうしてか外すことができない。

「ユイ」
「あら」

視線が別の方向を向いた。
正直、ホッとした。
身体の芯から緊張が抜ける。

「本当に、するのか」
「ええ」
「……止められないのか、俺には」
「出来るだけ、多くの手を打っておきたいの。あの時やっておけば良かった、なんて後悔するのは真っ平なのよ」
「こんな時でも、君は笑うんだな……」
「当然でしょ? どっちにしても守れるのよ。あの子も、あなたも。不安はどこにもないわ」
「…………」

目が、再びこちらを向いた。
不意打ちだ。

もし、身体が動かせたなら、きっと、全身に震えが走った。
目だけが細かく移動する。

――見たい。
いや、見たくない。

頭がくるくると揺れる。
おなかが寒い。

――うまれながらのしはいしゃ――

意味の無い単語が頭をよぎった。

力ではなく、愛でもなく、理解でもなく、憧憬でもなく。
どんな理由もなく、ひたすらに支配してしまう『もの』。

ただ存在しているだけで、全てを従える。
本人が意識しなくても、周囲を惹きつけ味方にしてしまう。
敵対者ですら、彼女の思惑にそったものにしかならない。

きっと、直下にいるのは、そんな生き物だ。

「(こわい)」

わたしは、身体を拘束されていても、こころは自由だった。
感じることも考えることも出来た。

それが、その最後の自由すら、彼女に支配されてしまう。

彼女の目が言っていた。
誰に教えられなくても、分かった。

その視線は、大気をつらぬき、ATフィールドをこえ、紫の装甲をすどおりして、わたしのこころを直接見ていた。

――わたしのこころを、『じぶんのもの』だと、告げていた。

最後に下弦の月を歪め、彼女は立ち去った。
わたしは残された日々を、ただ震えて過ごした。






とても騒がしかった。
ふれることができそうなほど、空気は硬く緊張し、コンピューターも人間も、臨界寸前まで加熱してた。

わたしの身体に、いろいろなものを取り付けられてる。
背骨は抜き出され、別のものを挿入されていた。

慌しい上に、きゅうくつだ。


わたしは、ある種の覚悟を決めた。
出来る限りの抵抗をしてやると。
諦観とは違う。
これは、わたしだけができる、わたしだけの戦いだ。


やがて、周囲が静かになった。
作り物の背骨が入れられてからは特に。
冷たくも密度の濃い世界。
唾を飲み込む音が、やたらと大きく聞こえた。


誰かが、そっとふれた。

ふれた、というのは言葉どおりではなく、わたしの意識に、ということだ。

「(いやだ!)」

反射的に思う。
『それ』は異物であり、違うものだった。

要らない。
必要ない。

わたしはわたし。独立した生き物だ。


なのに、わたしの身体は自分の意志を裏切り、あっというまに融け込ませてしまう。それが元々の機能だとでもいうように。

漠然とあった意識が消える。
目の前に誰かがいる。

「あら」

わたしと彼女は対面した。
彼女はわたしを見つめ、わたしは彼女を見た。

赤い空間で、わたしたちは出会った。

たぶん、何の気なしに、彼女の手が伸ばされた。

「(!!!)」

するりと融けあう。

なだれ込む。
流れ込む。


  
  碇ユイ
 女性
     補完計画
  母親     
         妻
  黒い   
    月
               明日
   リリン・人類
                  未来
 ヘイフリット限界
                死
            アダム
 進化
     リリス        
                     終着にして執着
  新しく生まれる新たなる種  
                  新たなる人類

     死海文書

    たましいの座

      いのち 



良く分からない情報が頭に流れ込む。
必要の無い情報がなだれ込む。
わたしのことが中心にあるようだが、意味をつかめない。

苦しい。
苦しい。

『わたし』が消えようとする。
過去が意味をなくす。

生きてるのに、死んでしまう。

――電源を切られたように、意識が途切れた。







それからの日々は、いままでに輪をかけてよく分からなかった。 
わたしはわたしとして存在できなかった。

たまに意識が戻る。
そんな時は、決まって『こわいとき』だった。

細い光がわたしの目を突き抜ける。
後頭部まで貫通し、血が噴出する。

熱さ、痛み、恐怖。
わたしではない感情が伝わった。

背骨から、いままで知りもしなかったものが伝わった。

それが『誰か』に伝達される。
意識が吠える。
わたしの意思ではなく駆ける。


夢を見ているような、実感の伴わない体験だった。  

誰か知らない人と目が合った。


きょうだいを、たぶん、殺した。





「この馬鹿シンジ!」
「なんだよ、アスカが悪いんじゃないか」
「…………」
「ファースト! アンタもなんか言いなさいよ」
「あ、綾波だってそう思うよね」
「…………」
「アンタなに味方増やそうとしてんのよ」
「え、だって……」
「…………」


夢の中で、そんな声を聞いた。
なんとか、そちらを見る。
『男の子』が一人に、『女の子』が二人、だと思う。
気になる言葉を言っていた。

「(あるじ……?)」

夢の中で、かすかに意識が甦る。
なんとかして其方を見る。
なんだか発令場とやらが騒がしいが、気にしない。
イカリシンジ、たしかそれが、あるじの名前のはず。

「(…………)」

間違いなのか、と思った。
じゃれ合っている三人がいる。
青い髪に紅い髪、黒い髪の三人だ。
仲のいい光景だと思う。
楽しそうだな、と感じる。
でも――










――――あるじは、そこにいない。




+++


「はあ」
大きなアクビを一つ。
正直言って、かなり眠かった。
「まったく。いつまで寝てるつもりだよ」
文句を言いつつ、頭を撫ぜた。
眠り姫は眉をかすかに寄せ、されるがままになっている。
白い肌は、いつも以上に血の気がなかった。
良くできた人形――じゃないな、きっと。病気で伏せっている獣、そんな雰囲気だ。
いつもの快活さを感じられなかった。
あのイロウルの件から一昼夜、シアが起きる気配はまったく無かった。
致命的なこころの傷は負っていないとは思う。
共有されているATフィールドからも、そんな感触は伝わらない。
けれど、ときどき洩れ出る呻き声が、そんなことは全て関係なくしてしまう。
すぐ傍で苦しそうにしてるのに、僕ができることがなにも無いのだ。
伸ばされる手を握る、助けを求める声に応える、吹き出る汗を拭う。
他にできることは何も無い。
大丈夫だ。これは心配するようなことじゃない。そう思う一方で、『もしかしたら』『ひょっとしたら』という不安をなくす事ができない。
苦しんでいる時は特にだ。
――シアの寄せられた眉が開放され、僕の肩に入っていた無意識の緊張が解ける。
「ふう」
一晩中、この繰り返しだった。
シアをベットに寝かせ、横に座って待つ。
言葉にすればこれだけだ、疲れるようなことは何も無いはずなんだけど、実際にするのは多大な労力が必要だった。
何もする事ができないのが、これほど辛いとは思わなかった。
太陽が昇ってから、かなりの時間が経っていた。
開けっ放しになった窓からは風が吹き込み、カーテンを存分にはためかせてる。
夏特有の蒸し暑さ。それが風で緩和されるけど、それでもやっぱり湿気は濃かった。
僕は、ただシアの一挙手一投足だけを見つめてた。
そう、それだけしか出来ない。
それでも、傍にいたかった。
「シア」
本当に、いつまで寝てるつもりなんだよ。
思わず文句を言いたくなる。
いつ起きるかの保証がない。
今日かもしれないし、三年後かもしれない。
こころに致命的な傷が無いとはいえ、もしかしたら、ずっとこのままかもしれなかった。
(独りぼっちに逆戻り、ね)
勘弁してほしかった。
朝起きておはようの挨拶が言える。
くだらないことで言い合いができる。
それがどれだけ重要なのか、きっとシア本人は知らないだろう。
たまに喰われたり、喰わされたりもするけれど、それでも、シアに一緒にいてほしい。
間違いようのない、本心だった。
動物の毛皮みたいな質感の、長い髪を撫ぜる。
本当に眠っている獣を撫でてるみたいだった。
太陽の明るすぎる光が、なんだか嘘っぽく思えた。
静かに眠っているシアの邪魔をしてるとさえ見えた。
「まだシアが起きてない、昇るのが早すぎるよ」
不安を押し殺し、そんなことを呟いてみる。
太陽がサンサンと照らすのを、半ば非難しながら睨んでみる。
当然のように目が痛くなるだけだった。
「――痛い」
目を閉じ、眉間をもむ。
我ながら、ちょっと馬鹿みたいだった。
シアがいたら、「苦行をするのか、あるじよ手伝うぞ」とか、真剣な顔で言うことだろう。
もちろん、この場合の苦行は『喰べられること』だ。

――かぷり

そう、ちょうどこんな感じで首筋にかみついたり、逃がさないように両手で拘束したりするんだろうな、きっと。
「って、シア!?」
ビックリした。
目を開くと、そこには僕に噛みついてるシアがいた。
座っている僕に抱きつきながら、噛みついてきてる。
「お、おい?」
「…………」
なんの反応もなかった。
ただ、だんだんと噛む力が強くなる。
それだけが唯一の返答だった。
血が滲み。
「っツ!」
やがて、皮膚や筋肉の耐久限界を超え、血が噴き出した。
ごっそりと、肉を抉り取られようとしてるのが分かる。
カチン、と歯が閉じられた。
「――ん」
ノドが脈動してた。
飲み込んでいるんだ。
自分の身体の一部が失くなる、その喪失感が叩きつけられる。
――でも、なんだか様子がおかしかった。
なんて言うか、『嬉しそうじゃない』んだ。
「シ、シア?」
吐く息と共に歯が外され、反対側の首筋に噛みついてきた。
長い髪に阻まれて、その表情は見えなかった。
熱い体温と、息だけが伝わってくる。
何かを確かめ、味わうように、噛みついていた。
「シア? どうしたのさ」
気道を通る酸素を確保しながら、聞いてみた。
さっきから無言で噛みつくばかりだ。
「…………」
顎をかじられたとき、初めてシアと目があった。
――泣いていた。
睨むわけでも悲しそうでもなく、なんの表情も浮かべないまま、その目から涙を流していた。


+++


――わたしが目を覚ました時、あるじの姿が見えた。
目を閉じ、痛そうに目の間を揉んでいた。

――わたしを見てない。

そのことが、なぜか悔しかった。
ぽっかりと空いたこころが、満たされない。

だから、わたしはベットを抜け出して、あるじの両手をすぐに拘束し、首筋に噛みついた。
歯が当たる。
感触が分かる。
血が出る直前で顎を止め、脈打つ血管を歯で悟る。
なぜか、とても嬉しい。
泣きそうなくらい、安心できる。
ふれる肌のあたたかさ。
口のなかにはしょっぱさ。
あるじの震えるからだが、てのひらに伝わる。
すべてが、おそろしいくらいリアルだった。

歯を進め、その肉を喰べた。

そこから先はよく覚えていない。
あるじから声をかけられた記憶が、ちょっと残っているけれど、ただひたすらにあるじを喰べていた。
ぽっかりと開いた部分を満たしたかった。
いくら喰べても足りなかった。
めずらしく、あるじは怒らなかった。
――ふと目が合った。
わたしは固まってしまった。
理由は分からない。
ただ、あるじの驚いた瞳がだんだんと落ち着いた、ふかい色へと変わる。そのようすを見ていた。
一拍おいて、静かに訪ねてきた。


「シア……さみしかった?」


「…………」
瞳が大きくなるのが自分で分かる。
呼吸が止まる。
意識も止まる。
無言で、頷いた。
涙の塊が、ポロリと落ちるのが分かった。
表面張力から零れる。
我慢が、やせ我慢が壊れようとしてる。
「そっか」
「…………」
背中をポンポンとたたかれた。
ゆっくりと、落ち着くように。
全部を吐き出していい、そう言われた気がした。
自分でも気づかなかった部分を、そっと開いてくれた。
わたしは無言ではあるじの胸にしがみつき。

泣いた。

子どもみたいに、ただひたすら泣いた。

「あ、あああああああああああああああああああーーーーー!!!」

胸を叩く。
シャツが破れて、血がにじんでた。



+++



「なんで、なんで、いなかった」
しばらくの後、落ち着いてから僕はそう言われた。
まだシアは胸の中で涙を滲ませてる
これは夢の中で、ってことだろうか。
「あー…………ゴメンな?」
他に言える言葉が無かった。
こう言う以外にない。
「ひどい、最低だ。恨むぞ」
「あ、あのねシア、それは精神汚染の……」
「わかってる、これはただの恨み言だ。でも、言わせてくれ、寂しかった、とても、とても寂しかったぞ……こころが、死んでしまうかと思った」
抱きしめる、何も言わずに黙って。
「う……」
体温の熱さ、汗のにおいが伝わる。
きっと、シアにも伝わっていることだろう。
少しの後、シアの感情がまた決壊した。
声をあげて泣いた。
胸を叩き、噛みつき、シャツが破れるほどしがみつかれた。
泣き終わるまで、ずっと抱きしめた。


――朝日だけが、ただ時間の経過を知らせていた。