鬼護子(おにごっこ)




承前


古来、『魔』を払うのに理を用いなかった。
必要なのは力だ。
ごく単純な、力。
それは兵数に拠る時もあり、異能に拠る時もあった。
魔獣、精霊、妖怪、霊体、呪術に怨霊、人を脅かす彼らは、ただ力によってのみ征服された。
それは人と人との戦争とさして変わらないもの、鍛え、高め、誇りとする武力により蹴散らせば終わるものだった。
しかし、『魔』の中において、『シト』と呼ばれる物の怪だけは完全な別格であった。神々の兵とも呼ばれる彼らには、如何なる兵数も異能も無力だ。『赤守』と呼ばれる結界に、その全ては阻まれた。
名工が作りし刀も、隕鉄で出来た矢じりも、国を滅ぼせる異能の力でさえも彼らを殺傷するには至らない。
人は初めて『狩られる立場』を経験した。
成す術のない無力を味わい、算を乱して逃げ出すより他なかった。
作物は荒らされ、日々の暮らしも徐々に下がり続けた。
絶望が、嘆きが全土を覆った。
だが、人は諦めない。
諦めて屈服し、霊長の座から退くことを良しとはしない。
恐怖や屈辱は、安全地帯まで引き返せば怒りと復讐の糧となる、その燃える炎を胸中に抱え、再び闘争へと向かう。
繰り返し繰り返し。
人は諦めない。
歯を噛み締めながらも、自らの頭上に位置する存在を認めない。
人は全ての長でなければならないのだから。
――負けるのであれば、その力、取り込めば良い。
ある時、そう結論を出し、幾百もの生贄を捧げた機関があった。
名は『音瑠府』(ねるふ)。
試みは部分的に成功した。
『鬼力』と便宜上に呼ぶ種々の力を、異能の子どもに植え付けたのだ。
新承15年現在、成功は僅か3例。
犠牲者数と比べれば、余りに希少な数字だ。

血と屍で形を作り輪廻は回る。
17種の『魔』を打ち倒さんと、人はあがき続ける……




一章

その子どもは、年齢以上に幼く見えた。
手足はすらりと長いが、あまりに細く、骨と皮ばかりであった。
落ち着いた、それでいて怯えた視線は彷徨うばかりで一定しない。
さほど高くない身の丈は、平均を下回るであろう。
その黒い瞳と髪は、この国のほとんどの民に共通する特徴だった。
笑えばさぞかし辺りを明るく照らすであろう顔は、いまは不信と疑念に囚われていた。
少し前に、少年を先導する大人が突き進んでいた。
歩き方に迷いは無い。
だが、見る人が見れば、後姿に尋常ではない焦りが伺える筈だ。
早足も決然として、というよりは、恐慌一歩手前のためであった。
「あの……」
痙攣するように、前の大人の足が止まり、振り返る。
その動作ひとつひとつに不自然さが滲んでいた。
まるで故郷で買った安物の絡繰り人形みたいだと少年は思った。
「……なに?」
大人は無表情だった。
実に似合わない。
「あの――――ここって、さっきも通りませんでしたか?」
「……碇、シンジ君だったわね」
「はい」
大人はシンジに、ゆっくりと、重大なことを話す速度で話した。
「ここで迷うってのが、どういう意味を持つのか分かる?」
「……いいえ」
少し迷ったが正直に少年は答えた。
こんな場所、初めて来たのだ。
知るはずも無い。
大人は、震える唇から言葉をこぼした。
「それは、死ぬってことなのよ……」
再び歩く。
さらに早足だ。
少年を置き去りにしかねない速度だった。
シンジは虚をつかれたが、すぐさま追いかけた。
「ちょ、ちょっと待って下さいよ!」
「なに! 急いでるのよ私は!」
怒鳴り返す。
大人気ない大人の典型だ。
「ぼ、ぼく、この通路、八回くらい通った気がするんですけど!」
「寄寓ね! 私もよ!」
「滅茶苦茶に危険じゃ無いですか!?」
「勘がいいわね! シンジ君!」
「だんだん通路が暗くなってるのも気のせいですか!」
「わたしも同感よ! シンジ君!」
「そ、そもそも迷うことがなんで死の危険に繋がるんですか!?」
「そういう所なの! この屋敷は! 一回でも足を踏み入れたら出るのは不可能よ!」
「ぼくは父さんに会いに来ただけです!」
「あなたのお父さん?」
「はい、一昨日、手紙が届いて、一言『来い』とだけ」
大人の足が止まり振り向く。
無限量の憫れみが、その瞳の中で凝固していた。
荷馬車で売られて行く、なにも知らない子牛を見る目だ。
冷然とした、それでいて悲しさを含んだ声が無限通路に響いた。
「諦めなさい」
余韻さえ残して言葉は消えた。
何もかもを統括して断言する、運命を言い渡した声だった。
再び歩く。
子どもは、碇シンジは一拍遅れて付いて行った。
「何をですか!? 父さんと会うことだけですよね? そうなんですよね!? ミサトさん!!」
大人は――葛城ミサトは一切喋らなくなった。

非常に重く沈鬱な空気が破られたのは、それから更に100歩ほど移動した先でだった。
突然、何でもない壁が回転した。
まる忍者屋敷のように、ごく自然に壁が裏返る。
壁中央には、怪しげな女性が張り付いていた。
眉毛は黒であるにも関わらず髪は金で染め上げられ、真っ白な、変わった衣を身に纏っていた。
このような不審者は宗教家や一般人ではありえない、呪術師や怨霊使いといった、社会常識の埒外にいる者だった。
「何をしてるのミサト」
ごく平然と続ける。
まるで『ずっと此処で壁によりかかっていたのだ』と言わんばかりに。
「ここでは金子も刻も有限なのよ、分かっていて」
冷静に、冷徹に、肩眉を上げて不快感を表現していた。
「あっ、リツコ〜、た、助かったわ〜」
怪しげな女性――赤城リツコはため息をついた。
「また迷ったのね、ミサト、貴方、此処に来てからどれぐらい経ったと思ってるの」
「ご、ごめんね〜、ちょっち、ね」
「……幾度、死にそうになれば気が済むのかしら、いっそ最後まで行ってみる? 迷いきったその先でどうなるのかは、私にも正確には把握しきれてないのよ、ちょうどいいわ」
「ちょ、ちょ」
「冗談よ」
にこりともせずに続けた。
「貴方が碇シンジ君ね」
「あ、はい!」
「私は赤木リツコ、ここ『音瑠府』で呪術部監督をしてるわ」
「赤木、さん……?」
「リツコでいいわ、こっちよ」
呪術師は歩き出した。
その歩みは言葉と同じく冷静で、正確だ。
歩行を緩めることなく、リツコは言葉を投げかけた。
「シンジ君。貴方、ここがどういう場所か把握してる?」
「え、ここって、音瑠府ですよね」
「んー、ちょっち違うわね、正確には……」
「ミサトは黙ってて、話がややこしくなるわ」
煙管に火を点けながら呪術師は答えた。
「円形防衛都市、第三新東京府、退魔中枢府に無限豊穣の都、様々な別名を持つ場所、ここ音瑠府では防衛をしているわ」
「防衛、ですか」
「ええ、防衛」
なにやら拗ねているミサトを残して話は進む。
「シンジ君、都のことは知ってるわね」
「え、京の都のことですか」
突如、跳ぶ話に、戸惑いながらも少年は言った。
「その京よりもここは住んでいる人の数が多いわ」
「へ」
「信じられないのも無理わないわね、噂としては伝わってわいるだろうけれど、その実体を誰も知らない都、それがここよ」
「ま、まさかここって『夢の都』なんですか!!」
「そうとも言われているわね、税もなく、飢えれば食料を与えられ、罪を犯したものは必ず裁かれる『夢の都』。実際、これは本当よ。私たちは税を取らず、難民には必要な食事を与え、どんな罪も決して逃さない。けれど……」
「けれど……?」
呪術師は皮肉気に笑った。
「世の中はバランスがとれてるのね、この都は何故か『シト』の攻撃に晒されることになったの」
「『シト』……」
「聞いたこと、あるでしょ?」
ミサトの声が割り込んだ、先ほどまでとはうって変わった深い声だ。
「私たちの敵、人類の天敵、奪うことも犯すこともなく、ただ殺す、ただ殺戮だけをする最悪の人形たちよ」
目が据わっていた。
何かを中空に映して睨んでいた。
「彼らは『二の衝撃』と呼ばれる震災以後、頻繁にあらわれるようになった。その理由、目的はさっぱり不明よ」
「乱数のように何処にでも現れ、目撃者さえ稀なほど殺戮を続けるわ」
「そしてそれらは数ヶ月前から『音瑠府』を標的にしだした」
「今は第一適格者が祓っているけれど、どこまで持つかわからないわね」
「ここは一番安全であると同時に、一番危険な都なのよ、司令がシンジ君を呼んだのもそのためなのかしらね」
「……説明を補足すると、いままでは第一適格者が祓っていた為に都の中までは被害は出てないわ。けれど一度『シト』の進行を許してしまうともう駄目ね、際限の無い被害が都内で出るわ」
「そういうこと♪」
「あ、あの!」
少年は声を張り上げた。
「父さんが僕を呼んだ理由は何なんでしょうか? 僕は長い間ほうっておかれてたのに急に呼び出されたんです、それなのにこんな事になっていて、本当にぼくを保護するためだけなんですか……?」
「不安なの?」
「はい」
「そうね、私もその辺は詳しく聞いてないのよね、リツコは知ってる?」
「…………発霊所に着くわ」
呪術師は扉を開けた。
決して暗くはない廊下だったが、それよりも更に明るい光が向こう側から漏れてきた。
「ようこそ『音瑠府』へ、シンジ君、私たちは貴方を歓迎するわ」
光の先は楽園だった。
水が豊富に流れ、室内とは思えないほど瑞々しい空気だ。
一言で表現すれば『滝壷の底』。周りをぐるりと滝が流れ、底にあたる部分が奇妙な白い床になっていた。
床には幾つもの座が設けられており、水鏡がその座の前に設置されていた。
滝裏からは枝が何本も顔を覗かせている。
中央には天井まで伸びる柱が在り、二階が途中から生えていた。
その二階に、人がいた。
「父さん……?」
彫像のような直立不動、巌と悪徳を鋳造したらこうなるであろう姿。
赤い眼鏡の奥から見下ろしながら、男は声を投げつけた。
「よく来たな、シンジ」
「……うん」
「出撃だ」
「え」
歩いてきた三人は、それぞれ異なった反応を見せた、少年は何のことなのか全く分からず、女はまさかという反応、呪術師だけが事態を理解していた。
巌の言葉が再び響く。
「シンジ、お前は第三適格者だ」
「ええ!」
ミサトが驚いた。
「司令! シンジ君を出撃させるおつもりですか!?」
「…………」
「そうよ」
「リツコ!」
「先ほどレイが負けたわ、私たちには対抗手段が残されてないのよ」
「無茶よ! あのレイでさえ、いままでやっとのことで倒してきたんじゃない!」
「大丈夫よ」
呪術師は煙を空に吐いた。
「彼は『憑かれて』いるわ」
「! シンジ君が!?」
「ええ、ミサト、貴方ならそれがどういう意味を示すか、判るでしょう」
「そ、そんな、でも……」
「事態を把握しなさい、後が無いわ」
「…………」
「…………」
リツコの両肩を押さえていたミサトが、息をも止めて硬直した。
混乱が彼女の中を駆け巡っていた。
「父さん……」
「…………」
「僕が、戦うの?」
「他に、戦えるものがいないからな」
「そんな、無理だよ! あの『シト』なんでしょ! 闘えるはず無いじゃないか!!」
「……ならば帰れ、この都に臆病者は必要ない」
男は振り返って伝声管に呼びかけた。
「冬月、レイを起こしてくれ」
≪使えるかね≫
「死んでいるわけではない」
≪……分かった≫
その対話を聞き、リツコが補佐官たちに指示を出した。
「防護機構、再出撃に合わせて準備して、支援機構は近・中支援から中・遠支援へ変換!」
「はいっ」
「ハイ」
「了解しました」
補佐官の伊吹マヤ、青葉シゲル、日向マコトは水鏡に向かって集中した。
両手は脇の円形魔法陣に置かれている、水鏡が発光し、術者の望む景色と情報の接続を同時に行う。
「シンジ君……」
悔しげに両手を震わせ、顔を下横に落としている少年に、葛城ミサトは声をかけた。
「このままでいいの? 逃げていてはきっと後悔するわ、自分に負けていては何も出来ないのよ」
静寂が、暫し辺りを包んだ。
振り絞った音が、少年の口から吐き出される。
「何を」
声は、重かった。
「何を、言ってるんですか……あの化け物と生身で闘えって言うんですか? そんなの、そんなの無理に決まってるじゃないですか……」
「けど……」
「…………」
止めた言葉の先が、少年には理解できた。そう、誰も彼もが少年に言う台詞だ。
心の中の、昏い部分が爆発する。
怒りが吹き出し、叫びとなって溢れた。
「ええそうですよ! ぼくには『憑いて』ますよ化け物が!! でも、だからって痛くないわけじゃない!! 怖くないわけじゃない!! ここも! ここも同じなんですか!? 大変な時だけ縋って頼み込んで、平時の時は化け物として扱われて…………また、ここでも繰り返すんですか? ここでもぼくは同じなんですか!?」
「シンジ君」
少年の肩に置こうとした手は、空中で止まった。
葛城ミサト本人にも把握できない部分で逡巡する。
この少年の内には、間違いなく『シト』と同質のものが在る。
そう、碇シンジは『憑かれて』いるのだ。それは間違いない。
けれど、両手で拳を握り締め、泣き顔を必死で隠そうとするその姿は、紛れも無くごく普通の子どもの形だ。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
二人は一言も喋らない、話すべき言葉が無かった。
不器用で重い沈黙、それを打ち破ったのは扉が開く音だった。
看護士の押す車椅子に乗せられて、少女が部屋に現れた。この清浄な部屋が似合いすぎるほど似合う少女だ。
男の、感情の無い眼が向けられ、巌の言葉が響いた。
「レイ」
「はい」
「予備が使えなくなった、出撃だ」
「はい」
その子には片足が無かった。
車椅子に乗っていてもそれは分かった、眼帯を巻き、もう片方の腕を吊っていた。
包帯は真新しく、つい先ほど巻かれたものだと知れた。
「出撃準備をします」
「ああ」
車椅子に力を込め、立ち上がろうとした。
片足が無いためなのか、その様子は酷く苦しげで不自由そうだった。
「…………」
碇シンジはその様子を、ただ黙って見ていた。
「くっ」
誰も手を貸す様子が無い、皆、それぞれの職務に戻っていた。
葛城ミサトも背を向け戦闘準備に向かっていた。
白く神聖な滝壷の底で、ただ一人で立ち上がろうとしてる、その形、在り方は、淋しく孤独だった。
「…………」
少年は、様々な感情を込めてその少女を見ていた。
片足の必要とされている子ども。
五体満足の不必要とされた子ども。怒り、理不尽、曖昧模糊としたものが彼の中で渦巻いた。決して健康的でないそれらは、いつものように彼を暗い方向に導いた。
(僕は、必要ないんだ……)
確信に、近かった。
(僕が呼ばれるのは、闘うときだけ。父さんだって『戦力』が欲しかっただけで、『ぼく』が必要だったわけじゃ、ない)
平時には、むしろ邪魔者扱いされるのが常だった。
皆がシンジを欲する時――
『シト』と戦った時のことを思い返した。
途端、胃が収縮し、吐き気が湧きあがった。
手がどうしようもなく震えた。
押さえようとしても押さえきれない。
(こわい、いやだ、もうあんな思い……)
死ぬことさえ出来ない苦しみ、常人とは永遠に分かち合えない地獄、そんな場所、決して好んで行く場所ではなかった。
例え、目の前の少女がそれを肩代わりすることになっても、だ。
(帰ろう)
苦い、とても苦いものを飲み込み、少年は決心した。
目の端で、片足の少女が何とか立ち上がったのが見えた。
(帰るんだ)
少女の震えは、恐らくは生理的なものであったことだろう、片足では上手く立つことさえ難しい。けれど少年には恐怖に震えているように見えた。
足は、なかなか前に進まなかった。
ぐらっっっっ!!!!
「うわっ!」
止まった足、それが掬われた。倒れそうになるのを何とか堪える。
世界が揺れ、地面も視界も水さえも、不吉な轟音と共に揺れ動いていた。
少年は顔を上げた。
その先では少女が崩れ落ちようとしていた。
少年は何の思考もなく、無意識のうちに走り出す。
「奴め、ここを突破するつもりか……」
「碇、時間がないぞ」
「リツコ! どうなってるの!?」
「今、検索中よ!!」
「目標、こちらの円劫結界を攻撃中です!」
「突破まで、あと290秒!」
「レイに破法一式と雷送装置を早く!」
「第一整備!? こちら発霊所! あと30秒で用意を!」
「朱出孔を開きます!」
「……っ!」
「…!っ」
「!っ」
騒がしい中、誰も倒れようとしてた片足の女の子に注意を払わなかった。
出撃までに用意できればいい、皆、己の役目それだけを考え、それだけしか考えていなかった。
むろん、それは正しくもある。
敵がすぐそこまで迫っているのだ。
時間が何よりも、それこそ命よりも重要だという認識は共通のものだった。
そして、
「離して」
それは女の子も同じだった。
床に叩きつけられるところを助けてもらっても、感謝の意どころか邪魔扱いだった。
少年は、なぜ自分がこんなことをしたのか混乱したが、ともかくその言葉に反発した。
「そ、そんな! 駄目だよ!」
少女を立たせながら言う。
視線が同じ高さになった少女は、冷静に尋ねた。
「……何故?」
「だって、だって怪我してるじゃないか!」
「あなたには、関係ないわ」
「でも!」
「どいて……」
腕に力が込められた。
突き放す、というよりも自分から手を使って離れるような具合だった。離れながら壁に寄りかかる。いや、倒れる先にたまたまあった、と言った方が正確だろう。
少年は何も出来ず、女の子を注視した。
蒼く白い髪、閉じられた瞳、汗は異常なほど吹き出ていた。
どう贔屓目に見ても瀕死の重傷だ。
闘える状態では決してない。
これでは死に行くようなものだった。
「く……っ!」
己の罪を直接こころに叩き込まれた気分だった。とても直視していられない。地面を見下ろし拳を握った。
(え……?)
そして、気がついた。
己の左手に、違和感があった。
(ぬるぬる、してる?)
握った手を開いてみる。
(…………え!?)
認識は、ひとつ遅れて伝わった。
赤くべったりとしたものが掌をぬめらせていた。
血、だった。
改めて顔を上げる。
苦しげな顔、脇に添えられた手、その手の下から『それ』は流れていた。
ぴちゃりと、床に血滴が落ちる。
早く細い呼吸に合わせるように、ぴちゃり、ぴちゃりと。
「ね、ねえ! 君!!」
「…………」
女の子は返事を言わない、目も開かない。
その赤だけが床に広がり続けた。
「怪我してるんだろ!? 駄目だって!」
「…………」
「こんなの、こんなの間違ってる!」
「知ってるわ……」
「え」
返事が返った。
望まぬ、意外な返事が。
「間違ってるなんて、知ってる……」
目は閉じられたまま、独白のように続けられる。
「でも、私は戦う、闘わなきゃいけない…………そうでなければ、いけない……それが、わたしの、意義…………闘わなければ、守らなければ…………わたしは……」
目がゆっくりと開いた。
花が咲いたのかと錯覚した。
紅い紅い、瞳。
魅入られた。
どんな魔性よりも、どんな神聖よりも。
「だいじょうぶ」
「…………」
何が大丈夫なのかは分からなかったが、言葉には説得力があった。命がけの、言葉だ。自分の命を賭け、発せられた言葉は何よりも強く、鮮やかに少年の耳に響いた。
脳髄の奥の奥まで、あらゆる意識に冷水が掛けられた。
「…………」
己の掌を見た、じっと凝視した。そこに意味を見るように。
ため息をひとつ付いた。
溜め込んだものを吐き出すような、軽快なため息だった。
つばを飲み込み、首元を広げた。
また拳を握る。
その中にある血こそ、何よりも重要な事柄を伝えていた。
自分の呪いよりも、父親への反発よりもだ。
後ろを見る。
騒がしく忙しい発霊所にも、秩序と成果が見え出していた。
何をしようとしてるのか、何が起ころうとしてるのか、少年は詳細に観察した。
どうやら何らかの『通路』を形成しようとしているようだった。
滝の一部が割れ地肌を覗かせた。そこには呪陣が精密に、幾重にも描かれていた。
呪陣の中心が赤く光り、脈打ちながら拡大する。
純粋な火炎要素が出現したかのような存在感だった。
また、赤光は呪陣の上にただ乗っている訳ではなかった。
それには『奥行き』があった。我々の知る何処でもない方向への『深さ』あった。
安定を司る呪文を補佐官たちが唱え、言霊が一定の秩序を以て呪陣の周囲を回転してた。
少年は、また、つばを飲んだ。
これからしようとしていることは、恐ろしく馬鹿げているように思えた。
けれど、
(…………よし!)
覚悟を決め、一歩、踏み出そうとした。
――ぐい。
だが、それより先に引き止められた。
「え?」
背中を誰かに掴まれたのだということに気づいたのは、少し後だ。
件の少女だった。
荒い息を隠せないまま、鋭い声で糾弾した。
「何を、しようと、しているの……」
「君には、関係のないことだよ」
少女とは違い、優しい声で答える。
「やめて」
「…………」
「戦わないで……」
「駄目だよ」
少女がそう言う理由は分からなかったが、
「決めちゃったんだ」
睨まれる。
先ほどとは違う、憎しみと激怒が込められた視線だ。
迫力も並ではない。
「僕が戦わないと、君が傷つくはめになるんだろ? そんなの駄目だよ」
「逆……」
「へ?」
「闘う方が、だめ」
「…………へ?」
何がどう駄目なのか、まったく理由が分からなかった。
「それってどういう……」

「レイ! こちらに来なさい!!」

呪術師の声が響いた。
準備があらかた終わったようだった。
「!」「!」
少年と少女の間に緊張が走る。
いまだ背中は掴まれたままだ。
少年は自由に動ける、けれど、下手に振り切れば少女が倒れるのは明らかだった。
少女のほうもまた、ここで離せば少年がどのような行動に出るか分からないため、迷いが生じる。
なぜか二人とも、周りの大人を呼ぶという考えは無かった。裏切りのように思えたからかもしれない。
様々な思惑の入り混じった一瞬が過ぎる。
先に動いたのは少年だった。
「ごめん」
言って素早く服を外した。
「!」
和服は帯さえ緩めておけば簡単に脱げる、少年は真下へ身体を抜けさせ、少女に上着だけを掴ませた。
本人は上半身を裸にしたまま走る。
紅い眼が見開かれた。
此方に向かってくる大人をすり抜け水鏡が設置されている座を通り抜け走る走る走る。
白く滑る床を蹴り、事態が分からないまま伸びてくる手を振り切り、円形の滝底を端から端へ。
葛城ミサト、赤木リツコ、冬月コウゾウ、碇ゲンドウ、補佐官達、そして、綾並レイの見守る中。
呪陣の中心へ、
赤く燃える転移陣へ、
何のためらいも無く飛び込んだ。
「!!!」
「シンジ君!!」
叫び声は一瞬で聞こえなくなる。
熱い、熔かされる感覚が少年の全身を燃やし尽くし、瞬時に碇シンジは消滅した。
「! リツコ!!」
「主要画面を正面へ!!」
一つの目的へ万進していた発霊所が、再び混乱の渦へと叩き込まれた。
逃げ出そうとしていた少年が、何の準備も無く再び戦闘を始めたのだ。
無謀、無茶でなく、死への直結路をそれは意味する。
幾人もの人々が準備をしていたのは伊達ではない、あの呪陣は『綾並レイ専用の転移陣』だ、他の者が入れば再結合を失敗するか消し飛ぶか核融合を起こすか、とにかく成功率は皆無に等しい。
「日向君! 探して!」
「やってます!!」
周囲の滝に幾つもの画面が現れた、大小様々な大きさのそれらは此処、『夢の都』音瑠府をくまなく映した。
補佐官だけではなく、その場にいる全員が周囲の画面に注目した。
処理能力が補佐官に及ばずとも、皆、何か行動せずにはいられなかった。場合によっては『シト』の攻撃よりも悪い事態が起き得るのだ。
綾並レイは、その中でも、さらに真剣に凝視していた。
手には残された服を握り締め、口もとは僅かに引き締められている。
滝に映し出された画面は高速で変化していた。
どれも一秒と同じ場面を映さない。
やがてある映像が静止し、それを中央の最も大きな画面で拡大して映し出した。
「第三適格者、発見しました!」
「出現位置は!?」
「これは…………」
「どこ!!」
「これは、高度1000、『シト』直上です!!」














《続かない》