初めは、ただの好奇心だった。


脳関係に問題を抱える人々の病棟は、いくらわたしがイタズラをても、「ただの症状にすぎない」と回りに扱われる人ばかりだった。だから、わたしは思う存分、自分の姿を見せつけていた。
その日も、年若い患者をひとり気絶させた。
くもって聞こえる笑い声を上げ、わたしは安全な場所まで引き返す。
『安全地帯』まで引き返してから、驚いた時の表情を思い出して、また笑った。

本当に人間とは、色々な表情を見せてくれる。
恐怖に引きつりきった顔、気絶する直前の白目、自分の正気を疑う狂乱、現実から逃避する自閉……
そんな彼らの反応は、わたしに少しの悦楽と、多くの絶望を与えてくれた。
くもぐった笑い声は、すぐに収まる。
脳内を駆ける電流も、たちまちに消える。
笑っても、何をしても、根本的な虚しさはなくならない。
そう、結局のところ、わたしはこの世界では、ただの『異物』だ。
脅かした相手は、そのことを表情で、絶叫で、攻撃反応で教えてくれる。
排除されるべき、異界の存在。
この世界のどこにも安息となれる場所は無い。

理解を示してくれたパパはいたけれど、基本的にわたしは周囲と乖離していた。
この地球上のあらゆる生物体系とかけ離れた存在、それがわたしだ。


落ち込もうとする意識を振り切り。
わたしは部屋に置いてある本を手に取る。

……恋愛小説と呼ばれるものを、実は愛読してた。
あまりに馬鹿馬鹿しい行動原理によって動き、時には死を超えて、倫理すらかなぐり捨てて愛し合う男女。その命すら燃焼させる生き方に、わたしはため息をつき、渇望を禁じえない。
紙の上に書かれたこれらが、理想の物語であることは理解しているけれど。
『愛情』という概念を知った時から、それを諦めることができていない。

幾夜も病院の中を彷徨いながら、わたしはリノリウムの床を闊歩する。
時計の針が動くのを、楽しく、虚しく過していた。
他人と会話をしない日々を、どんどんと積み重ねながら――



……『彼』と出合ったのはそんな時だった。

いつものように『安全地帯』から抜けて、対象となる患者を脅しにかかろうとしていた。選別する基準は噂話。人は2人以上集まると情報を交換したがる性質らしい、天井のダクトにいるだけでどこどこの患者は大変だなどという情報が集まる。

その日選んだ人間も、そうやって手に入れたものだ。
曰く、酷い事故に合い、奇跡的に生き残った、が、どうも様子がおかしい、自分たち看護婦に極力ふれないようにしている、顔も見ようとしない、食事にも手をつけない……そんな情報だった。

この脳外科医では、そんなに珍しい話ではない、むしろ、マシな部類に入る。
でも、話を聞いた時、その他人を寄せ付けない姿は、パパに似てると思った。
かっこいいと評される容姿から、絶対に違うとは推測できたけれど、それでも確かめてみるべきだと思った。
(万が一、ってこともあるかもしれないしね……)
そんなことはあり得ないと、わたし自身、確信してはいるのだけど……

 

―――そして、わたしはいつものように彼へと近づいた。
この時間はいつだってドキドキする。
わたしを見たら怯えるだろう、きっと恐怖で顔中を歪ませることだろう、そう思う一方で、「もしかしたら」という希望を捨てきれない。
わたしはまだ子どもだ。
そんなこと、あるはずもないのに……

一歩一歩、標的に近づく。
その顔は、わたしを見ていない。
否。
まるで、視界になにも入らないようにしてるみたいだった。
夢と現実の端境にあるようだったけれど、彼は、どんな人間よりも絶望的な目をしていた。
(わたしに似てる……)
そんな感想を、なぜか持った。
この世に、なんの救いも見出せない人間の目。
諦めきった、神や命から見放された者の目だ。
ドキドキが、少し強くなった。
いつもと変わらない、そのはずなのに。
その視界に入ることに緊張を覚えた。
ひょい。
そんな音がしそうな感じで、彼の前に立った。
彼はわたしを見た。
わたしは彼を見た。
……その時の感動を、わたしは生涯忘れない。

「ぁぁ…」

その目は、

「怖くないの? わたしのこと」

恐怖も嫌悪も無く、

「君は……誰だい? なぜ、ここに……?」

ただ賛嘆と感動に彩られていたのだから。

「わたしは沙耶。パパのことを探しに来たの」






沙耶の唄 ss

世界の温度








その日から、わたしの蜜月がはじまった。
最初は当然、警戒してた。
いつでも逃げ出せるように、いつひとりに戻っても大丈夫なように気を配る。
野生の猫が人を間合いに入れないように、できるだけ彼にこころを許してはならないと配慮してた。
当然だ。
だってこんなことは信じられなかった。
わたしを見て驚かない、ならまだしも、わたしを見て感動に咽び泣くなんて……
ホント、初めは「本格的にヤバイひとなのかな?」と思ってしまったくらいだ。
わたしは自分自身の姿をよく理解してる、人に嫌悪を抱かせる姿であることも、人外の忌むべき臭いも理解してる。『女の子』としては認めたくないことだけれど、わたしは人に愛されるような容姿はしていない。相手がどこかヘンなのだと思うよりほかは無かった。

けれど、違ってた。
彼は、脳手術を受けたことによって認識障害に陥っていたのだ。
彼から見る周囲の世界は、普通の人間からすれば耐え難いものになっていた。
話を聞いていると、わたしなんかには「キレイな世界」に思えるのだが、内臓とガン細胞の混じり合ったようなその風景は、郁紀には見るに耐えないもののようだ。
おもしろい。
そんな風に彼のことを思った。
彼、匂坂郁紀はごくまっとうな人間の感性を持っている。
にもかかわらず彼は周りを当たり前に認識できない。
病院の風景を「気持ち悪い」と称し、わたしのことを「唯一美しい存在」と言うのだ。
当たり前の人間でありながら、わたしにふれてくれる、それも感動と感謝を込めて。

背筋のほうからゾクゾクとするものが走る。
興奮なのかもしれない、恐怖なのかもしれない。
やっと欲しいものが手に入った興奮。
失うかもしれない、騙されているのかもしれない恐怖。
深夜の病院で逢瀬を重ねながらも、いま一歩踏み込めなかったのは、この相反する感情のせいだ。
本当に欲しいものは、いざ前に出されると躊躇してしまうものなのだ。
『本当に、わたしでいいの?』
何度、郁紀に問い掛けようと思ったことだろう。
結局その勇気はなかったけれど、常に不安だった。
看護婦が巡回する隙間をついて、幾夜も郁紀と話し合う、それだけでも幸せだったのに、むざむざ壊すようなまねはしたくなかった。


わたしは、しあわせだった。
わたしは、はしゃいでいた。
人を脅かして楽しんでいた日々が嘘のようだ。
向かい合って、おしゃべりをする。
わたしに、さわってくれる。
それだけで、こころは満たされた。

……郁紀は、日々元気になっていった。
わたしという『普通』の人間と話をしていることが、精神的に良い方向へと働いたらしい。
会話をしながらも、どんどん顔色が良くなっていくのが、わたしでも分かった。
けれど、それは郁紀が退院するのが近づいてくることでもある。
きっと離れ離れになるだろう。
最低でも、こんなに頻繁には会えない。
わたしはパパを探すためにこの病院を離れるわけにはいかないし、郁紀には郁紀の生活がある。
こんな風に真夜中に、何かの秘密を共有するかのようなおしゃべりは、もうできない。
(覚悟、しなきゃ)
わたしは自分にそう語りかける。
まだ引き返せるはずだ。
わたしは、独りでも大丈夫なはずだ。
なにかを恋しいと思うことなんて、無いはずだ。
郁紀が退院する日を見ないようにしながら、わたしは何度も自分にそう言い聞かせていた。


「君は……これかれもずっと、この病院に居続けるのかい?」
ある時、郁紀がそう尋ねてきた。
退院の一日前だった。
わたしは半ば諦めを乗せた声で郁紀に答える。
「うん。けっきょくパパの手がかりはなかったけど、もう他にいるところもないし。バレそうになるまでは、いいかなって」
郁紀は少し躊躇してから、とんでもない提案をしてきた。
「良かったら……僕の家に来ないか?」
「え?」
「家族はもういないから、部屋はいくらでも余ってる。人目を忍ぶような必要も無いし住み心地もそんなに……」
そのあとの言葉を、あまり良く憶えていない。
自分が何て言葉を返したのかも憶えていない。
ただ、郁紀が放ったひとつの単語が、わたしを突き刺して離さない。


「……沙耶と、離れたくないんだ」


離れたくないんだ。
はなれたくないんだ。
ハナレタクナインダ。


永遠に繰り返されるリフレイン。
意味がわたしの中で像をつくるのに多大な時間を費やした。
適当な言葉をかえして、その場を離れるのが精一杯だった。
表情には出さないようにしたけれど(そう、彼はわたしの表情も読めるのだ!)、こころの中はマッハ6以上の絶風の嵐だ。
理解して、くれるだろうか。
明日食べるものも困っている人間に、1兆円の札束を渡された気分。
欲しがっていた宝石の、100倍は価値のあるダイヤモンドを贈られた気分。
砂漠で彷徨っていた人間が、真水のプールに瞬間移動した気分だ。
うれしい、なんて言葉じゃ追いつかない、狂喜なんて言葉でもまだ生ぬるい。
ひりひりと焼け付くような、苦しみさえ伴った歓喜だ。


わたしは『安全地帯』の中で独りバタバタと暴れた。
彼の名前を叫ぶ。
枕を抱きしめる。
目からは涙が溢れ出た。
いとしい。
いとしい。
本当に、いとしい。
誰かを好きになることが、こんなにもしあわせで苦しいなんて知らなかった。
「あ、返事!」
まだ答えを言ってなかった。
「どうしよ、なんて言おう。これからよろしくとか? お世話になりますとか?」
なんか、お嫁に行く台詞だ。
わたしはまた暴れる。
いままで、これほど感情の高ぶりを覚えたことはない。
自分の感情で手一杯だった。
だから、いつもなら気がつくはずの気配を見逃した。
それは、ゴチャゴチャと物音をたてながら現れた。

「オイ! そこ誰かそこにいんのかよ!?」
「……なあ」
「んだよ」
「ヤバイよ、知らねえのかよ、ここのウワサ」
「へ? んだよそれ」
どうやら、二人組みのようだ。
わたしは今さらながら気配を消した。
病院関係者、ではないようだ。
年若い二人組みの深夜の侵入……
医療品が目当て?

「ほら、ここ『出る』、って、幽霊だか怪物がよ」
「んなんウワサだろ」
「でも、これは」
「ああ、ひっでえニオイ、どうせホームレスのおっさんでも住んでるだけじゃねえか?」
「にしても酷すぎだろ」
「んだな、こりゃ酷え、てーか酷すぎ」

失礼な人間。
けれど、わたしは慄然とした。
彼らはわたしの一番の弱みを気づかせた。
そう、わたしは本来はそういう扱いを受けるもの。
郁紀があまりに『普通』に接してくれるから忘れかけていたけれど、
もし、もし、郁紀がなんらかの原因で元に戻ったりしたら……?
(耐えられない…)
この臭い、姿、声を本来の状態で聞かれたら?
どうなるか、なんて、余りにも明らかだ。
全身に冷水をかけられた。
一緒に住む、それは……
(わたしが、郁紀に嫌われる可能性もあるんだ)
可能性? いや、わたしを知られれば知られるほど、郁紀が受け入れられない事が出てくる。
例えば――

「オイ!! 出て来い!!」
「なあ、もうやめようぜ」
「ここまで来てびびんのかよ、どうせヨワッチイやつがいるだけだろ」
「でもよ……」

彼らが会話できるのはそこまでだった。
わたしは意識を切り替える。
脆弱なわたしが『狩る』ために必要な、冷徹な意識。
片一方の『獲物』に飛び掛ると、その腹を掻っ捌き。同時に肉体を溶液で侵して『食べやすく』した。
『獲物』の肺から空気の漏れる音がする。
「へ? んだよ、オイ」
床に広がる赤、そこをライトが照らし出す。わたしの姿も同時に見られた。
「う?、あ、あ!」
その言葉も途中で途切れた。
非力なわたしだけど、この姿を見た人間は必ず恐慌に囚われる。その隙をつくことは容易い。
余計な人間を呼び出すその咽喉を、何よりも早く切り裂いた。
(ああ、そういえば)
真っ暗な、さきほどとは全く別のベクトルの感情に塗りつぶされながら、わたしは呟いた。
「夕ご飯、たべてなかったっけ……」
『食料』は、目の前にある。




ぴちゃ
ぴちゃ
『食べる』音がする、目からは静かに涙が溢れた。
悟ってしまった。
(やっぱり、無理だよね)
いくら郁紀がやさしくても、いまのわたしを見て大丈夫だろうか?
わたしは、別に人間だけを食べたいわけじゃないけれど、それでも、いままで何度かこうしたことがある。
その時の経験から考えても、一番おいしいのは、間違いなく『コレ』なのだ。
(耐えられる……?)
郁紀を襲わない自信は、ある。
けれど、周囲にいる人間は別だ。
郁紀の家に住むと言うことは、普通の食事をしなければいけないということだ。
わたしは、無理とは言わないが、美味しいともいえない食事をとり続けなければならない、そんなストレスの中で、無抵抗な人間が訪れでもしたら……
(たべちゃう、な)
理性で抑えきれないだろう。
郁紀に発見もされてしまうだろう。
その時、郁紀はどういう態度をとるだろうか。
すくなくとも、
(もう、あんなふうに抱きしめてくれないよね)
それ以外にも、あれこれ無理な理由が脳裏を過ぎる。
甘く、梨のような食感の『それ』を食べながら、わたしは涙を流してた。
非力ながら、人を食うバケモノ。
なんて皮肉なんだろう。
わたしには、人を愛する資格なんかこれっぽちもない。それなのに、独りでいることが出来ず、かといって、人を支配することさえ出来ないのだ。
わたしは、バケモノだ。
バケモノだ。
化け物……
ぷつん、と、頭で何かがもぎ取られた音がした。
(郁紀……!!!)
わたしは血まみれの床に跪いた。
床を叩く。湿った音が小さく響く。
嗚咽は、幾度噛み殺しても殺しきれず、唇から漏れ出した。
わたしのこころを暖めていたものが、冷たい現実に押しやられているのを感じた。
こころが凍える。
キリキリと、刺されるような寒さと痛さ。
風邪なんてひかない精神は、ただ壊れゆくだけ。
そのボーダーに立っていた。
自分が崩れそうになっているのを、他人事のように見ていた。


……どれくらい、そうしていただろう。
わたしは立ち上がると口もとを拭い、夢遊病者のように歩きだした。
頭の中では郁紀の名前を連呼してた。
どこへ向かっているのか、自分でもよく分からない。
気がつくと彼の病室の前にいた。
一番、来てはならないとこなのに、何故かいた。
そっとドアに触れてみる。
(……郁紀の、におい、だ)
頭をついた。
彼を起こさないよう、静かに。

あの静かな瞳でもう一度、わたしを見て欲しい。
ゆっくりと、こころゆくまで抱きしめて欲しい。
そんなふうに叫ぶわたしがいる。
果たして、いまのわたしは、彼なしでいられるだろうか……?
「は、ははっ」
答えは、決まってた。
「無理だよ、もう」
でも、会えない。
会って一緒に暮らせば、わたしの正体に気がついてしまうから。
その時の郁紀の態度に、表情に、わたしはきっと耐えられないから。
ここにもいられない。
ここにいたら、また、郁紀と出会ってしまうかもしれないから。
会えば、声をかけずにいられないから……
「……さよなら」
わたしは、永遠の別れを郁紀に告げた。


……わたしは、歩く。
どこへ行くあてもない。
パパが行方不明になったのと状態は一緒だけれど、決定的に違う点がある。
これは何かを取り戻すための行動じゃない。
大切な人から逃げ出すための行動だ。
得るためじゃない、失うための歩み。
自然、歩調も重くなる。
慣れた夜の匂い。
森や人間がそろって二酸化炭素を吐き出す公平な世界。
歩く。
歩く。
歩く。
幾つか仮の住処となりそうな廃墟があったけれど、なぜか足を止める気にはなれなかった。
休む気になれなかったのかもしれない。
自分の身体を痛めつけたかった。
「はあ」
夜に、吐息を吐く。
白いもやの塊となって宙へ拡散していった。
(どこまでいけばいい……?)
どこまで行けば安らげる?
どこまで行けば救われる?
どこまで行けば……

滑稽だ。
わたしは、わたしの意志でこうして歩いてるというのに。
「ふふ……」
我ながら暗い笑みだ。
ビルの隙間を通り抜け、木々の間を静かに行く。
大通りなんて使えない。
そこは夜中でも人の居る場所だ。
月の明かり、蛍光灯の光りが疎ましい。
せめて、何も見えない真闇なら、堂々と道を歩けるのに。
ふと振り返ってみる。
わたしが通った後は、ぬめぬめと粘液の筋があった。
犬がわたしを狂ったように吠え立てる。
車の窓ガラスには、異形の姿が見える。暗くてよく見えなかったのがまだ救いだ。きっと常人なら目を背けるか殺害しようとする姿。
そのどれもが、私のこころにはとどかない。そんなのは、もうどうだっていい。

……恋は、麻薬に似てるという、だとすれば、わたしはきっと重度の禁断症状の患者だ。
今すぐ引き返せと、喧しく命じる声がある。
いやだいやだと暴れる子どもが、わたしの中にいる。
あのぬくもりが欲しいと、震えながら彷徨うわたしがいる。
99人のわたしが郁紀を欲しいと哭き、叫び、暴れてる、それらを理性担当のわたしが背負いながら歩いてる。
正直、擦り切れてしまいそうだ。
そうだ、本当を、本音を言えば、今すぐ郁紀の胸に飛び込みたい。
やっと、やっと見つけることができたパートナーなのだから、失うことは辛すぎる。
でも、好きだからこそ、嫌われることに耐え切れない。
この姿を見られることに恐怖を覚える。
人外であると、知られたくない。
「あ、あ……」
なんで、また、涙が流れるのだろう。
いくら泣いても、訴えても、それは無駄だと自分に言い聞かせ続けてるのに。
十字路を曲がり、夜の道をさらに彷徨おうとして、


心臓が止まった。


氷でできたダンプカーに突っ込まれた気分だ。
これは、不意打ちもいいところだ。こんなことはあり得ない。
全身が隅無くあわ立った。寒さで震えて歩けない。そうだ、こんなことはありえるはずかない。きっと夢を見てるんだ。
震える。
足が、お腹が震えて立てない、ぺたんとその場に腰をおろした。
涙が出る、先ほどのと違い、今度は歓喜と恐怖。
まるで、できの悪い怪談だ。
逃げて逃げて逃げのびて、逃げ切ろうとしたその先に………
「あ、ああ……」
その眼で、恐る恐る横を見てみる。いや、本当を言えば、見る前から分かってた。
ほったらかしにされた庭や壁、雑草はぼうぼうと生え、汚れも酷い。長いこと家人が帰っていない証拠だし、きっと本人だっていたのはかなり前だろう、けれど、それでも、わかった。
「なんで……?」
それは、今、わたしが全力で逃げようとしていた相手、匂坂郁紀の家だった。


もう駄目だった。
帰巣本能以上の欲求で、細胞一つ一つが求めているかのように、わたしは郁紀の家に入った。ううん、入らされた。
自分を破滅させらるのが分かってるのに、自分の意志ではどうにもならない。そのあまい匂いに逆らえない。
食虫植物に食べられる虫は、きっとこんな気分なんだろう。
視界が揺れる。
まっすぐに歩けない。
呼吸が普通にできない。
(2階……)
そこ、そこに、
「郁紀……」
わたしの絶望の、
運命の終着点がそこにあった。



そして――――――
ここにいる。
郁紀のベットの上、彼の匂いが一番、染み込んでいる場所。
今となっては、100人全員のわたしが、ここにいろと懇願してる。
そう、ここから動くことなんてできなかった。
でも、100人全員のわたしが恐怖に震えてた。
郁紀が帰ってくるのが、心の底から、怖かった。

きっと、その瞬間から運命は一方通行になる。
もう、絶対に引き返せないトリガーが引かれる。

この冷たく寒い夜が明け、郁紀が帰ってきたら、わたしは、きっと最初に確認してしまうだろう。
どうあっても変わらないのに。
不安の根源は拭いきれないのに。
それでも、
聞いてしまう、




――世界の温度を確かめるための問い――

 








「本当に………ここにいても、いい?」