――窓の外を見てみると、とても変な人がいた。
なぜって、その人は、走り高跳びを失敗し続けていた。

わたしが掃除をする前にはもう始めていた。
だから、わたしが机をずらし、床のゴミを掃いて、また机を元に戻してゴミ箱を捨てに行って、そうした諸々のことをしている間中、ずっと跳びつづけていたことになる。
もしかしたらそんなことはなくて、休みを挟みながらしていたのかもしれない。けれど、その人が肩で息をしている様子や、滴り落ちる汗を見ると、たぶん、それは違うのだろう。
「――――」
わたしは、その光景を見ても、別に何の感情も湧きあがらなかった。
ただ、少し、その愚かしさを疎ましく思った。
最初に見た時と変わらずに、跳ぼうとしては失敗を繰り返し、いつまでたっても成功しそうになかった。
跳ぶ――失敗する。
跳ぶ――失敗する。
跳ぶ――失敗する。
いつまでも、いつまでも、まるでビデオテープの再生と巻き戻しを繰り返しを見ているかのようだ。
背を少し屈め、棒を睨みながら、身体ぜんぶでリズムをとっている。
肩で息をし、汗がポタリと滴り落ちる。
『再生』。
走る。
そして――『失敗』。
棒の落ちる、乾いた音がする。
マットの上、その人は数瞬だけ停止していた。
また動く、棒を元の位置に戻していた。
高さを下げる様子はない。
『巻き戻し』。
元の立ち位置まで戻る。
「――――」
なんて愚か、なんて愚か、なんて愚か。
わたしはそれだけを呟いていた。
本当に、愚か。
もし、あの高さを跳びたいのなら、まずは低い高さから徐々に慣らしていくべきだ。それでも突然あの高さを跳びたいというのなら、経験者に教えを請うべきだ。
それをしない彼は、だから、愚か者だ。
夕日が、だんだんと、その赤さを増していた。
風は『実は時間が止まっているのだ』とでも言うかのように、まるで吹かない。
楽しげな喋り声が遠くで聞える。
野球部の、金属バットが球を弾く音。
ランニングをしている人たちの揃った掛け声は、催眠術のような眠気を誘う。
――心臓が、苦しかった。
相変わらず、口は「なんて愚か」と無音で呟いていたけれど、目だけは彼を追っていた。
引きずられそうになっている自分を、自覚した。
その人の表情は、楽しそうに見えないし、苦しそうにも見えなかった。
強引に表現するとしたら無表情なのだろう。むしろ、つまらなさそうな顔だ。
でも、わたしにはそれは、『当たり前のことをしてる』表情に見えた。
多分、彼は成功することも失敗することも、まるで関係ないのだ。上手く跳び越えることが出来ても、喜びもせずにさっさと帰りそうな気さえする。
やはりその時にだって、笑顔を浮かべないのだろう。

「――!!」
突如、明確な予感が、わたしを穿った。
『未来視』じみた直感だった。
脳がグラリと揺れる。
――わたしは、きっとこの光景を憶えている。
明日も、明後日も、5年後でも10年後でも、もしかしたら死ぬ直前まで、この光景を目に焼き付けてる。
そんな深い『確信』が、わたしを容赦なく襲った。
――諦めない――
そんな単純で難しいことを、誰に言われなくてもしてる彼の在り方が、胸の奥の重要な場所に、いとも簡単に侵入してた。
何故か、責められた気さえした。
(わたし、『諦める』以外のこと、してきたのかな)
それは恐ろしい囁き、自分の根幹を突き崩す疑念。
手首を握る。
唇をかみしめる。
犯されて、嬲られて、あんなおぞましい場所に投げ込まれて、『諦める』以外の、どんな選択肢があるというのだろう?
反抗すれば良かった? 訴えれば良かった?
そう、それが『人間相手』であれば通用したかもしれない、けれど、おじい様を相手にしては自分の反抗は無意味、法も警察もどんな偉い人も頼りに出来ない。
優しかった、なんとかしてくれようとしたお巡りさんが、犠牲になったことを忘れられない。
左手は紙みたいにねじれてた。右手は引っこ抜かれて放置されてる。両足にはびっしりと蟲が群がっていた。そして、それでも、お巡りさんは生きていた。
あの時の表情。
あの時の叫び。
おじい様の、異常なほど穏やかなまなざし。
――あんな思いをするくらいなら、わたしが我慢を重ねた方がよっぽどマシだ。
この瞬間だけは、無意味な行動を繰り返すその人に殺意を覚えた。
純粋に、なにも考えずに、『諦めずにいる』なんて許し難い。
世界の残酷さ、どうしようもないことの多さなんて、この年になれば嫌でも分かる。
子どものような単純さそのままで、生きてゆくことなんて不可能だ。
「――――」
なのに、わたしは、目を離せない。
呪いの言葉を吐こうとしているのに、それでも、『視線』という名の糸が、わたしとその人との間にピンと張られて離れない。
頭は混乱していた。
自分の気持ちが理解できない。
いや、本当に久しぶりに、『感情』というものを味わっているのかもしれない。
窓ガラスに手を置いた。冷たく、わたしとその人とを隔てるその手触り。
薄く映る自分の姿を邪魔に思いながら、わたしは見続けた。
もっと傍で見たいと、心のどこかが願っていた。
「――え?」
混乱に、拍車がかかった。
――なんで?
窓に近寄ったからだろう、いままで視界に入らなかった人が見えた。
「姉さん……」
本人を前にしては、一度も呼んだ事のない呼び名。
彼女もまた、その人を見ていた。
珍しく、隙だらけだった。
どれだけ集中しているのか、それだけで良く分かる。
樹に寄り添うようにして、口だけで何か文句を呟きつづけてる。
腕を組んでるその様子は、まるでコーチみたいだ。
わたしの耳には、「踏み切りが早すぎるのよ、ああ、もう、また……」というごく微かな呟き声が聞えてた。
それでも、わたしと同じように目だけは彼を追っていた。
「――――」
混乱した。混乱しつづけた。
あの人がしている事には価値がある。少なくともじっと見てしまうくらいには希少だと、確かめることが出来た安堵。
わたしとあの人だけの世界に、他の異物が混入した嫌悪感。
二つが同時に迫り上がった。
浮かび上がる単純な疑問。
――なんで、わたしとあの人以外の人間がいるの?
不条理とは分かっていても、そんな疑念を覚える。
侵入者が姉だということが、また、感情を複雑にしていた。
ふと、何かに気がついたように、姉さんが振り返った。
わたしと目が合う。
数瞬、酷く驚いた顔をした。
バツが悪そうな表情をしながら目を外らし、再び元の体勢に戻った。
……それだけで、姉さんも同じようなことを感じてることが分かった。

――魔術師は、まず最初に『諦める』ことを憶えなければいけない。
自分の代では到達できず、次の世代、そのまた次の世代へと望みを繋ぎ、それでも、そのすべてが『無駄である』こと覚悟しなければならない。
『 』に到達することは、努力だけではどうしようもないと既に分かっているのだから。
おじい様もそう、遠坂の家系もそう、魔法への到達を夢見ては失敗を繰り返してる。
「――――」
だから、なんだろうか、魔術師であるわたしたちが、その人の在り方に惹かれてしまうのは。
わたしも姉さんも、大きな見方をすれば、走り高跳びに挑戦しては失敗を繰り返してるようなものだ。
違いがあるとすれば、姉さんが自分の跳べる高さだけに挑戦し、わたしはそもそも跳ぶことを諦めていること。
そして、姉さんが自分の到達できない高さを睨み、わたしが機械の無感動さを求めている事。
――どちらも、彼のように淡々と、『自分の成すべき事をしてるだけ』なんて顔はしていない。

その人のしていることは、多分、とても綺麗な在り方なんだと思う。





わたしと姉さんは、夕日が結論を出すまで、ただ彼のことを見つめていた――