連続して見えたいくつもの情景は、まるでスライド写真のように移り変わった。
意味の或る光景と意味の無い光景が脈略も時系列もなく映る。
理解するよりも先に情報を脳に叩き込まれた。
何も考えられない。
思考よりも早く光景が行き過ぎる。
『わたし』という存在すら消え去り意味を失くす。
色境は映らず、五感は融け合い、星々の冷気を魂が直接に感じ、ブロミネンスを掴み、珪素生物の英知を知り、恒星の輝きを理解する。
散華したわたしは時空を漂い――
そして、再構成した。
+++
意識が覚醒すると同時に、わたしは後頭部を覆う枕の柔らかな感触を知った。
さらさらとした布団の感触が覆っている。
朝の爽気が肌に触れ、騒がしく働く声と振動が伝わる。
静かに眠っていた空気たちがひとつひとつと起きてゆく、あまりに平和な朝の時間。
鼻先をくすぐるこれは、味噌汁のニオイなのだろうか?
ほとんど嗅いだことがないので判別ができない。
目をゆっくりと開けると、陽射しが和風の室内に心地良く侵入していた。
畳の青草が香る。
寝ながら眺めると、まるで草原みたいだと思った。
その向こうの廊下では、幾人も忙しげに走っている。
(なんか……ミミが上に長い?)
コトリ、と、わたしの頭近くに、何かが置かれる音がした。
「――――」
「あら? 起きましたか?」
「ぅ……」
「まだ、喋らない方がいいですよ。ようやくここまで回復したのですから」
全身が、酷く鈍かった。
手を上げ「わたしは元気イッパイ」との意思を示そうとしたのに、上手く身体に伝わらない。
「起き上がれますか?」
「――――」
わたしは力を込める。
『起き上がる』という行為は、これほどまでに大変なことだったんだろうか?
まるで、背筋運動で限界以上に反らそうとしてるみたい。
『人体の構成上、90°に折り曲げるのは無理です』と、誰かに断言されたかのような身体。
なんとも不自由極まりない。
湯のみを運んで来てくれた彼女は、慣れた手つきでわたしを抱え、上半身を起こしてくれた。
あっさりと、わたしの身体は不可能を越えて、背もたれに座ることが出来た。
「さ、飲んでください……そう、ゆっくりと、慌てずに……」
口元まで、幅広の湯のみが近づけられる。
これが毒ではないか、なんて疑問が過ぎるよる先に空腹が勝った。
わたしは、恐ろしいほどの飢餓状態だった。
鼻が香りを嗅いだだけで、唇は自然とその液体を飲んでいた。
味はほとんど無く、とろりとした咽喉越しと熱さだけが伝わる。猫舌のわたしにも丁度いい熱さだ。
妙なニオイだけが舌の上に残った……ひょっとしたら、薬湯の類なのかもしれない。
途中、何度か咽せそうになりながらも、わたしはその液体をすべて飲み干した。
湯のみが外され、ふう、と熱い息を吐く。
内側から……活力が灯った。身体中の錆び付いていた部分に油が差され、ゆっくりと熱を持ってゆくのが分かる。
まるでメンテナンスとマッサージを同時にされてるみたいな心地。
――胃や腸が盛大にゴロゴロと唸る。思わず赤面した。
「あらあら」
微笑ましいものを見る目で、その人は見ていた。
背もたれを外し、もう一度、寝かしつけようとしてくれている。
「あの……」
恐ろしいことに、わたしはもう喋れるくらいには回復していた。
本当に、何を飲ませたんだと問い詰めたくなるくらいの効能だ。
「寝ていなければ、ダメですよ?」
布団の上を軽く叩く。
『お姉さん』という雰囲気がピッタリな、円い笑顔がわたしを宥めた。
真っ白な髪は三つ編みにされて左肩から垂れ、服装は……えーと、正直、センスが一世紀くらい先を行ってると言いますか……実に特徴的な赤と黒の服だった。
「ここは、どこなんですか?」
大人しく布団上で横になりながら、それでもわたしは問うべきことを聞いた。
「その服は正気なんですか?」なんてことは聞かない。
メリーと出会ったことは憶えている。
良く分からぬものに巻きこまれたことも記憶してる。
その後、色々なものを見たような気もするけど……ともかく、この場所が何処かを知る必要があった。
彼女は気づかうような、恐らくは浮かべ慣れた笑みで「ゆっくりと養生してくださいね」とだけ告げ、わたしの問いにはまったく答えず部屋を出て行った。
障子が開き、一瞬だけ向こう側の光景が見える。
そこには――えーと、これは……ウサミミ? を付けた人たちが、いつの間にか鈴なりに群がっていた。
自動ドア並の素早さで、障子は再び閉じられる。
野次馬的な歓声や喋り声が大きく聞こえる中、彼女の声が静かに渡った。
わーぎゃーと喚いていた騒音が、その底冷えする声でぴたりと収まる。
ぼそぼそとした不満の声も、板敷きを蹴る音で静まり返った。
――あの笑顔のまま、その場で足を踏み鳴らした彼女の姿が思い浮んだ。
たぶん、間違いないのだろう。
「ふう……」
状況はよく理解できないけれど、ともかく安全であることは確かなようだった。
無駄に騒げるほど活気がある場所なら、少なくともそこは、牢獄のように閉塞された場所ではない。
『無理矢理に今すぐにでも逃げなければならない』わけでは無さそうだ。
わたしは、自分が脱力するのを許した。
「――――」
野次馬たちが散って行く様子を、耳だけで捉えた。
肩の力を抜き、ゴロリと上を見上げる。
木製の、慣れぬ天井を見上げながら、わたしは徐々に記憶が整理され、蘇ってゆくのを実感していた。
ひとつひとつ、パズルのピースが合わさるように、過去情報という名の『絵』が立ち現れる。
「――――あー、そっか……」
わたしは、嘆息した。
なぜあの場所で遭難していたのか、思い出したのだ。
あの日――8月の16日。
博麗神社で撮影した写真の中から、ある決定的なものを見つけてしまい、わたしはメリーの家へ、戦々恐々としながら訪れたのだ。
そして、その写真との『境界を視て』もらい、わたしの予想が正しかったことを確認した。
それは最悪の事態――博麗神社の結界の崩壊を示唆するものだった。
わたしが世を嘆いて沈み、メリーがわたしを励まし、そしてどうやってここから隙をついて彼女をベッドに押し倒そうか思考してる時に、外から窓をノックされた。
メリーの部屋は、マンションの五階に位置する。
何かをしようとするより先に、窓ガラスが割れた。
振り向く作業より早かった。
そこにいたのは黒い十字架姿の少女。
「そーなのかー」などと言いながら宙を飛び、室内にまで侵入していた。
カーテンが風に煽られ突風と同期し、ガラスは散乱、壁紙は切り裂かれた――――室内は一瞬でズタボロだった。
危機を理解し、カバンから拳銃を抜く動作よりも早く、牙を剥き出しにしたルーミアがわたしに向かって飛翔した。
その速度は100m走、夢の1秒台すら達成できるのではと思えた。
成す術も無く、彼女の白く、ギザギザな歯を見ているしかなかったわたしに――
――メリーが、覆い被さった。
本当であれば、それは無理なはずなのだ。
先に言った通り、ルーミアの速度は尋常なものではなかったのだから。
なのに、まるで初めからそこにいたかのように、メリーはわたしを抱き締めてた。
嬉しさなんて微塵も無かった。
全身の血液が逆流し、背骨に霜が張り付いた。
あんな抱擁、二度と体験したくない。
口が絶叫を鳴らした。動かせる腕を、せめて身代わりにさせようと足掻くけれど、それはスローモーションのようにしか動かず――
メリーは、
そして、めりー……は……
――そこからは、よく憶えていない。
脳が憶えることを、情報を保存することを拒否したのかもしれない。
わたしの主観では――次の瞬間には空間が揺らぎ、境界が存在を失くし、メリーが消え去ってゆくのを『視て』いたのだ。
完全に能力を覚醒し、境界という境界をすべて操り、支配下に治め、無秩序な混沌を撒き散らそうとしてた。
メリーの金色の髪が巻き上がり。
――この世で、最も強固な存在(モノ)が破砕する音を聞いた。
その衝撃に巻き込まれ、わたしはあの世界へ飛ばされ、遭難したのだ。
記憶が部分的に失くなっていたのも、これが原因だろう。
…………いや、メリーのあの姿を、思い出したくなかったのかもしれない、な……
いま思い返してみると、既にルーミアのリボンは解けかけていた、恐らく、はじき飛ばされた衝撃で、更に緩んだことだろう。
その後、どう巡り巡ったのかわたしと出会い。戦闘。
しぶとく生き残った取り巻きに囲まれ、明治のあの場所へと『引き寄せられ』――時間跳躍をしたわけだ。
レミリアと出会ったと思ったら、再び『同じ衝撃に巻き込まれ』て此処へ漂着――記憶を取り戻す、と。
「飛ばされすぎだ、わたし」
力なく、ツッコミを入れてみる。
やはりボケ役がいないと、ダメだな……
ふう、とわたしはため息をついた。
全ての原因が分かってみると、意外と事実は単純だ。
こまかな枝葉はどうでもいい。
結界探索中に離れ離れになった状態と、そんなに変わらない。
「場所は……博麗神社の近く――」
あの大結界内なのだろう。
――だから、わたしがすべきことはひとつだけ。
『メリーと一緒に帰ること』。これだけだ。
それ以外は、本当にどうでもいい。
時間跳躍も、周囲の目も、メリーとわたしの覚醒も、魑魅魍魎や妖怪すらどうだっていいんだ。
そんなの、何の問題にもならない。
わたしは、決意した。
――絶対に、一緒に帰ってやる。
……とはいえ、いまは養生が先決だろう。
このままでは、身体を動かすこともままならない。
幸い、時間跳躍なんて反則技もあることだし、時間の長さは気にする必要が無い。
ふう、と、ため息を吐いた。
最近、回数が多い。意外とわたしは苦労性なのかもしれない。
何とはなしに――顔を横に向け、障子の向こうを観察した。
名も知らぬ小鳥たちが、何が楽しいのか鳴き続け、その生を謳歌していた。
ウサミミたちのワイワイとした騒ぎが、また復活してる。
あの館の、寂とした淋しさとは偉い違いだ。
「………」
わたしは、慣れぬ天井をもう一度見上げた。
――次に思い出したのは、彼女のことだった。
メリーを連れて帰ろうとするなら、一番の障害になるであろう彼女。
指が、こまかに震えた。
脳内いっぱいに彼女の顔が――レミリアの顔が思い浮かんだ。
一緒にお茶会をした時の表情。
あの時の会話が、仕草が、反応が、凄まじいリアリティで蘇った。
白い指が、同じくらい白いカップに絡み、中の紅い液体を唇に注ぐ様――
クラクラする。
本当に、目の前にいるかのようだ。
――ねえ、貴女、気に入ったわ。私の従者にならない?
震えが、徐々に大きくなった。
奥歯を噛み締める。
……最大の恐怖は、問題は、これが一方通行じゃないってことだ。
単純に、レミリアだけが支配したいと願ってる訳じゃないこと。
双方向性――心のどこかで、わたし自身も彼女に傅き、尽くしたいと願っている。
あの深い声で、『宇佐見蓮子ではない名前』を呼んで欲しいと望んでる。
今すぐに彼女の下に駆けつけたいと、わたしの深奥から声がするほど――
なんて、
なんて冒涜だ。
今迄の生を、全否定する思考だ。
わたしは奴隷になるために生きてたわけではない。
一個の人間として考え、判断し、生存してきたのだ。
わたしにも、なけなしのプライドくらいある。
生きている人間なら誰でも持っている、『わたしはわたしである』という矜持だ。
「く…ぅ……!」
全力で自分の身体を抱き締める。
震え、怯え、欲する身体を抱きとめる。
本当に、自分で自分が分からない。
この最低限のプライドすら奪おうとしている相手なのに、なぜか惹かれてしまう。
メリーへの感情ともまた違う。
彼女とは一緒にいて、とにかく楽しい。
いままで見過ごしていたものでさえ、彼女の目を通すと新たな発見がある。
レミリアは……もっと後ろ暗い。
彼女の狂気が分かる。苦しみが分かる。孤独が分かる。
そして、おそらくわたしのことも『分かられてる』。
そんな共犯者的な共感。
自分の気持ちと同じくらいレミリアのことが分かる。
同じ暗闇を共有している。
……だから、いまもこんなにも心配だった。
いま、レミリアはどうしてるのか……
最後に聞こえた悲痛な声は、泣いているようですらあった。
考えただけで、駆け出したくなる。
方法なんて分からない……けれど、何としてでも、『彼女の元へ行かなければ』と思ってしまう。
本当に、酷い、冒涜だ。
わたしは布団の中で、胎児のように丸まった。
頭の中を、とりあえず今はカラッポにしてしまいたい。
なににも邪魔されず、ぐっすりと眠りたかった。
――ここに来る間際に見た、メリーのとてもとても澄んだ瞳が、眠りに落ちる瞬間、わたしを見ていた……
+++
――起きた時刻も朝だった。
五分しか寝てない、というわけじゃなさそうだ。
シーツは剥がれ、掛け布団は部屋の隅で丸まり、わたしの髪はとてつもないことになっていた。
障子も二つ三つほど破れ、フスマは外れて転がっている。
乱れきった浴衣は、ほとんど用を成していない。
これら全てを短時間で行なったとしたら、世界最悪の寝相の悪さだ。
外の様子も、まるでなぞったように騒がしい。
和紙越しに差し込んでくる光の様子からみても、昨日の起床よりも更に早い時刻であるのが分かる。
どうやら、わたしは24時間眠りつづけ、更には魘され、暴れたらしかった。
まるで思い出せないけれど……ま、悪夢とはそういうものなんだろう。
気にしたら負けだ。
丸一日眠ったお陰か、身体の調子はすこぶる良かった。
肩をぐるんぐるんと回してみる。
服を整えつつ、その場で軽くジャンプ。
「ふっ! ふッ!」
調子に乗って、本格的に身体を動かしてみる。
むしろ、前よりもキレ良く動ける。
あの薬湯は、本当に何なのだろう?
薬物違反とか、副作用とか、依存症状なんて単語が頭を過ぎった。
これこそ、気にしたら負けなのだろう。
畳の上で、ステップを踏む。
軽くシャドーボクシングをしてみる。
身体を動かすのは、けっこう好きだ。
メリーなんかは、「蓮子は、たとえ自分の身体であっても『知らない』ことが許せないんだね」とか失礼なことを言っていたけど……ま、たしかに己の身体が思い通りになってゆくプロセスに、魅せられてる部分はあるのかも。
ワンツー、ジャブジャブ、ストレートからフック、ダッキングしてから身体を8の字に回転させ――
「しっつれーしまーす!」
障子を開く音が――時を止めた。
いや、わたしが何かしたわけじゃなくて、感覚的に。
ぷっくりした頬っぺたも愛らしい、笑顔が快濶なウサギ耳少女は、開けた体勢のまま固まってた。
わたしもガゼルパンチを放つ直前の姿勢で停止している。
天使が通ったとでも言うような、「やっちまったぜ」的な空気が満ちる。
頭の隅で警告が発せられた。
シャドーボクシングを行なっている人間+周囲の台風一過な状況=?
言い換えれば、独り暴れてるように見える人間とボロボロな部屋の組み合わせから、どんな連想ができるでしょう?
「し、しっつれーしましたぁ……」
「ち、違うって!」
笑顔のまま障子を閉めようとした幼女を慌てて止めた。
ここで止めないと、凄まじく厄介な事態が発生することが、未来予知並みに分かった。
なにせ、このウサギ少女の目は「うっわ、スクープだよ、オイ」と語っていたのだから。
全力で止めるのは当然の行為と言える。
だから、目にイタズラな輝きを秘め、脱兎しようとする少女に追いつき(追いついた瞬間、何故か彼女は妖怪でも見つけた顔をした)、その首をキュッと締め上げ、強引に室内に引きずり込んだのも――当然の行いなのだ。
+++
その後、実に平和的で文明的で効率的な尋問を行ない、彼女に『さっきのは見間違いだった』と確約させた。
やっぱり、人間に必要なのは誠意だと実感する。
心の底から頼み込めば、その情は相手にも伝わるのだ。
ほんの少しばかり拳銃による
気持ちと気持ちは通じ合うのだ。
現在、理由は不明だけれどもプルプルと部屋隅で震え、わたしを見上げているのは下っ端兎で、名を因幡てゐ、というらしい。
ローマ字表記すれば『TEI』ではなく『TEWI』となる。
すこしばかり発音し難い名だ。
英語のLとRの発音の違いみたいに、舌の特殊な使い方があるのかもしれない。
彼女がいつの間にやらメモ帳に書き込んでいた「地上人はお茶目さん? 瀕死だったのに部屋を半壊させる暴れっぷり!!」なんて紙を目の前で燃やしつつ、わたしは爽やかな笑顔で、
「おーい、もう何もしないから、ね?」
ほーら、おいでおいで、心配いらないよー、と手招きしてみた。
「――――」
うわあ、生物って、ここまで震えられるんだ。
思わず感心してしまった。
てゐは四肢を縮め、細かに首を振っていた。
兎喰い妖怪が手招きしました、って雰囲気だ。
ピンク色のワンピースは、彼女の真っ赤な瞳や頬っぺたとも相まって可愛らしい印象を与え、その可憐さを更に増加させていた。
これに涙を浮かべた瞳とか、胸元でぎゅっと握ってる両手とかのオプションが付く……
――イカン、なんか……ヘンな部分が目覚めそう……
「その服、可愛いね。ちょっと脱いで?」という言葉を無理に飲み干し、更に観察してみた。
昨日、看病してくれた人もそうだが、ここにいる人たちは病的なまでに肌が白い。
きっと北欧とか、日のあまり当たらない場所に住んでいたのだろう。
内側から輝くような、特殊な白さだった。
――抱き締めたくてたまらない、この感情をどう制御するべきなのだろう?
ともあれ、このままでは会話にもならないので、わたしはてゐとは反対の対角線上の隅に座って交信を試みることにした。
こちらに戦意が無い証拠として、中央に拳銃を置きっぱなしにしておく。更にわたしは両手を上げ、何も持っていないことをアピールした。
――もっとも、密かに後ろでカメラを隠し持ったままなのだけれど……
それに安心したのか、てゐの震えは徐々に収まった
わたしはカバンの中からゆっくりと、意味ありげに『ある物』を取り出した。
遭難初日でも我慢し、食べなかった品、結界探索の必需品――ブロック状の簡易携帯食品だった。
つい最近発売されたもので、現代人に不足しがちなビタミンやミネラルを補給しつつも、しっかりと一食分のカロリーも取れる、ついでに言えば味もかなり良い。
てゐは表情をまったく変えないまま、ウサミミを片方だけピン、と上げた。
明らかに、興味を持ってる。
視線はこちらに釘付けだ。
ためしに左右に振ってみると、彼女の顔も追随してた。
口は小さく半開きになっている。
そろりそろりと彼女の腰が持ち上がってくるタイミングを見計らって、わたしはブロック食品を放り投げた。
少しばかり手前に投げたため、てゐはダイビングで捕物した。
わたしには目もくれず、獲得したエモノを背中で隠すようにして、まじまじと観察している。
時折「構成要素は……」とか「栄養成分は……」とか「これは健康に……」なんていう言葉が聞こえた。
やがて、無言になったかと思うと、躊躇いがちな咀嚼音がする。
わたしも袋から残りを取り出し、食べた。
考えてみれば、ここ三日間で口にしたのは水、紅茶とお菓子、あとは薬湯くらいのものだった。――わたしは仙人か。
しばらくの間、食する音だけがした。
そして、わたしたちは同時に満足のため息を漏らす。
わたしは単純に腹が膨れたためだけど、てゐは別の満足みたいだ。
ふと顔を上げてみると、何かを期待した視線が覗いてる。
もう一つ、ブロック食品を取り出して、振ってみた。
今度は両耳が伸び上がった。フンフンフンと鼻息も荒い。
部屋の真ん中まで、わたしは徐々に近づく。彼女も同じタイミングでじりじりと近寄った。やがて、強引に手を伸ばせば握手できる距離まで接近すると、わたしは振っていた手をピタリと止める。まったく同時にてゐの腕がエモノを捉えようと掴みかかってきた。
――当然のようにそれを避ける。
闘牛士の如く懐に呼び寄せ、彼女の首をロックする。間近にまで接近した顔に、わたしはニコヤカに質問した。
「――ね、ここって、どこ?」
もちろん、左手は拾った拳銃をてゐの頭に突きつけてる。
残弾はもう無いけれど、そんなことは相手に分からない。
そして兎は銃に怯える動物であるし。その銃は『つい最近、何発も発砲したニオイ』をさせているのだ。
+++
――てゐの実に協力的な返答によると、どうやら、ここは永遠亭という場所らしい。
結界によって他から隔絶された、通常ならば何があっても来れないはずの世界。
地上の妖怪兎と月世界の逃亡者が隠れている所だとのこと。
そんな危険な家の庭先に、わたしはズタボロになって転がっていたそうだ。
すわ月からの侵入者か!? と疑ったらしいが、どう見ても戦闘不能なので、まずは監禁して様子を見よう、ということになったらしい。
「監禁?」
「薬湯、飲んだでしょ?」
わたしに縛られながらも、てゐはふてぶてしい様を崩さなかった。
もっともまだ細かく震えてはいるけれど。
「うん」
「あれって、たしかに滋養強壮にもいいけど、この部屋から出さないためのものでもあるの」
「え?」
「しばらく外に向かって歩いてみなよ」
意地の悪い笑みで兎少女は告げた。
なんだか気に食わないけれど、わたしは障子を開け、言われた通りに歩いてみた。
聞き出すよりも、自分で体験した方が早い。
縛り上げたてゐを背後に残して廊下を進むと――
「う……わ…?」
ある地点から、急激に身体が重くなった。
一歩ごとに、重力は増しつづける。
無理矢理に、根性で身体を前に進ませようとするけど、ついには足が廊下に張り付いて離れなくなった。
視界の中、へんな石像を見たが、ともかくこれ以上はヤバイと思い、あわてて引き返す。
血の気の引いてる表情がおかしかったのか、てゐは帰還したわたしを見てケラケラ笑った。
とりあえず、拳銃の引き金を彼女に向けて三回ほど引いてから、わたしは尋ねた。
「あれ……どういうこと?」
「あ、あっぶな! ちょっと!」
「答えて」
「…………ふん!」
インスタントカメラを構える。
「し、知らないって! 分かるのは『そういう効果がある』ってことだけ! 永琳さまが作った薬のことを、アタシが詳しく知ってるハズないじゃない!」
「エイリン?」
映画倫理審査委員会?
「アンタも起きた時に会ったでしょ」
「あのヘンな服のひと?」
付近をはばかるようにして頷いてた。
ヘンな服、のとこは否定しないんだ、やっぱり。
「解けないの?」
「永琳さま以外は、無理」
なんだ、それ――
『結界を張ってあるから出れない』ではなく『薬湯を飲んだから出れない』? どんな効果だ。
特殊な結界を張って、わたしに飲ませたものと反応でもさせているんだろうか?
それとも心理的な暗示効果?
ともかく『安全な場所』だと思い込み、油断しすぎた。
わたしは反省した。
結界探査の基本を忘れるなんて、部員失格だ。
無料より高いものは無く、異世界での親切は疑ってかかるべきなのだ……
はあっ、まったく、あの薬湯は、やっぱり毒薬的なものだったのか――
つらつらと自分を毒ついてる最中、
「ねぇ……」
「ん?」
「確認しときたいんだけど、あんたって、ホントに人間?」
ひどく真面目な顔で質問してきた。
「は?」
「ここはね、普通は……ううん、どんな特殊な人間でも入り込めない場所なのよ」
「え、でも……」
現に私はここにこうしている。
そしてわたしは人間だ。
『ここにいるぞ』とばかりに自分を指差した。
「だから、おかしいの! 妖怪でもない、兎ですらない、それなのに永琳さまの結界を破るなんてありえない!」
「そう言われても……」
たまたまです、としか言えない。
「アンタ、月の民なんじゃないの?」
「はい?」
ええと、月に住んでる人間のことだっけ。
宇宙人なんて、正直、わたしは半信半疑なんだけど……
「もしくはその血を引いてるとか?」
「血筋の事はよく分からないけど、わたし、普通の人間よ?」
「え〜?」
あからさまに信じてない顔だった。
「下手な嘘ついてんじゃないわよ」と表情が言っていた。
「別に信じてもらえなくてもいいけどね、純粋に迷い込んだだけよ……ま、証明しろったって出来ないけどね」
「ほんと?」
「疑り深いわね……あ、そうだ。さっき食べたもの、あんなのってどこでも見たことないでしょ?」
「確かにそうだけど――――って、あんなの地上でも見たことないわよ! あの変な包装紙はなによ!? それこそ月のじゃないの!?」
「エイリン、だっけ? 月に住んでた人だったら、そんなのがあるかどうかも分かるでしょ。あと日本製って書いてあるわよ」
パッケージ裏を見せつける。
「――あ、ホントだ」
意表を突かれました、って顔だった。
「え、じゃあ……?」
「ごく普通の人間よ」
「それが信じられないのよね」
「なんでよ」
「わたし、普通の人間って、逃げる妖兎に追いついたり、危険すぎる爪切りしたり、妖怪を監禁して脅したりしない生物だと思ってたのよ……」
ものすっごく冷たい半眼だった。
うーん、そうなのかな? わたしとメリーは、いつも似たようなことをやってるんだけど、そんなにヘンなことなのか?
妖怪を監禁くらい、誰でもよくやることだろう。
わたしは彼女を見据え、説得するように言った。
「いい、てゐ? 優しいだけじゃ、生きて行けないのよ」
「……この状態の私に、その言葉で納得しろって?」
「あ、やっぱり無理?」
「この縄を解いて一対一の決闘を受けてくれるなら納得するわ」
「なんで、そんな相手の有利になるようなマネをしなくちゃいけないのよ?」
「心底不思議そうな顔で言わないで、なんかいままでの常識が崩れるわ」
てゐは、なぜか疲れた表情だった。
でも、真正面から勝てない相手に、策を弄するのは当たり前の行為だと思う。
勝てない相手に勝つ手段を講じることを『知恵』と言う。
それをせず無為無策に突き進むのは勇気ではなく蛮勇だ。
説明すると、てゐは「あ、確かにそうかも」と呟いた。
「でしょ? 弱者には弱者なりの戦い方があるのよ」
「だからってなに髪の毛かき上げてカッコつけてんのよ、似合わないって」
「そうかな?」
「うん」
「これでも町内と学校では硬派で危険で近寄っちゃいけない倶楽部部員として知られてるのよ?」
「うわー、すごーい」
「足で拍手をするな、なんかスッゴイ馬鹿にされてる気分だわ」
「だからってそっちも四角いのを構えるなっ! ゼッタイにそれって穢れた地上の兵器かなんかでしょ!」
「ううん、これは娯楽品でカメラっていうのよ。家族みんなで楽しんだりするものよ」
「殺し合いを!?」
「イベント事があると、家族が勢揃いして、このカメラの前に列ぶのよ」
「それって一家心中ってことなんじゃ……」
喋り合っている最中、唐突に障子の外で――
「てゐ? そこにいるのですか?」
おっとりとした声がした。
言い争いを止め、思わず顔を見合わせる。
――今度は、先ほどのように『誤解』ではなく、本気で彼女を『拘束中』なのだ。
銃を構えた人間と、柱に手首を縛り付けられてる兎人の組み合わせを見て、「この二人は仲よしなんだ♪」とか思う人はいないだろう。
まず間違いなく、一級の犯罪者として認識される。
てゐは「アンタも年貢の納め時ね」と、嘲笑を浮かべてた。
……ふむ。
――――とはいえ、考えてみれば問題無い、か。
この場合、するべき行動に違いはない。
永遠亭という、隔離された場所であることは分かった。そしてわたしを拘束するくらいには疑いを持っている、つまり、向こうの善意は当てにできない、そして、時間跳躍して『あの時代へ』行くことが出来ない現状、今のこの状態――
わたしはてゐに微笑みかけ(なぜか彼女は見た瞬間、全力で逃げ出そうとした)、その首根っこを掴み、コメカミに拳銃を突きつけてから叫んだ。
――人質の命が惜しければ、こちらが要求したものを持ってこい! と。
『誤解』であっても『事実』であっても発見者の態度が同じなら、少しでもこちらが有利になるようにするべきではないだろうか?
+++
障子向こうの躊躇いは数瞬だけだった。
影がごく軽い調子で頷き。
「テロリストの脅しには屈しません」
「ええ!? ちょ、永琳さま!!」
「はい、どうしました?」
「え、あの、どうしたじゃなくて……」
「てゐの命が惜しくないの?」
「今夜の献立がシチューになりますね」
兎おいし彼の山?
「え、永琳さま……」
「なんですか?」
「それ、冗談、ですよね……あ、駆け引きの一環とか!」
「ふふふ」
エイリン、という人の笑い声だけが響いた。
とっても楽しそうだった。
「永琳さまぁ!!」
「大丈夫ですよ、てゐ。後の事は心配いりません。迷うことなく成仏してください」
「既に死亡確定!?」
「下働きの兎も補充しなければいけませんね」
「ちょ、真剣に悩まないでくださいよ! 現状を打破しましょうよ、と言うか平然と見捨てないでぇー!」
廊下向こうで楽しそうに歌が歌われた。
『兎は美味し』という歌詞内容だった。
「てゐ、あなた愛されてないわね……」
「お願いだから同情しないで脅迫者」
鼻水を戻しつつ、くっそぅ、強く生きてやる、という小声を呪詛のように呟いてた。
「エイリン、だっけ?」
「はい」
「せめてこちらの要求を聞いてくれない?」
「いいえ。一度でもそれを飲めば『次』を求めることでしょう。そんなことは出来ません」
なるほど、一理ある。
『兎一匹の命』を見捨てれば、それだけの損害になるけど、わたしの要求を飲みつづければ損害は無限に膨らむ。
『最低被害で事を収める』のではなく、『最大被害を出さないように事を収める』のは道理だし、確実だ。
「……ね、考えてみて」
しばらくの後、わたしは出来る限り理性的に、相手の心情ではなく頭脳に訴えかけるように言葉を紡いだ。
「わたしは『閉じ込められてる』、たしかに人質をとってはいるけど、それでも逃げられないことは変わらない」
「……そうですね」
「この状態で、わたしが『逃亡以外の要求』をしたとしたらどうなる?」
「――――」
障子向こうが考えるポーズを取った。
「……それは、当然、てゐとの交換ですよね」
「もちろん」
「それでは、あなたは『望むモノ』を手に入れたとしても、私たちは『そのあなたごと』捕獲できる、ということですか」
「その後に、またウッカリ者が迷い込まなければね」
「……要求を、聞きましょう」
やった!
てゐは「救われた? 救われた?」と絶望の只中に希望を見出してた。
「えーと、じゃあ、時間跳躍関連、特に未来跳躍に関しての本を――」「却下です」
わたしは、最後まで言うことすらできなかった。
「……え?」
すぐ下から、呆気にとられた声がした。
「彼女にそこまでの価値はありません。もう少しまけてください」
語尾にハートマークが付きそうだった。
だが、可愛くいった所で現実は変わらない。
てゐ<時間関連の書物
ということらしい。
あ、なんか、てゐがウツロな目になってる。
「で、でも、わたしはここから出れないんだけど……?」
「その書物を参考に、逃げ出すつもりでしょう? 『閉じ込める』ことが取引の前提なのに、それを破られるわけにはいきません」
バレてたか。
うーむ、時間跳躍してメリーをかっ攫った後、未来跳躍してしまおうとか考えてたんだけどなあ……
やはり、エイリンとやらは一筋縄ではいかない相手らしい。
ぶつぶつと呪詛を呟きつづける兎を無視し、交渉を続けた。
「超統一理論の解説書!」
「同様の理由で却下です、そこからヒントは得られます」
「魔物、特に縁とか運命を操るバケモノに対処する方法が書いてある本!」
「範囲が曖昧すぎますね。退治法は月知識の中でも深奥に属するものですから、出来る限り限定していただかないと」
「能力強化の法!」
「誘拐犯にロケットランチャーを渡すようなものですね、それは。敵を強くする理由はどこにもありません」
「え、えーと……」
どうしよう、もう思いつかない。
ああ、なんか胸元のてゐも真っ白に燃えつきてるし。
しっかりしろー。
大丈夫だ、わたしがついてるぞー。
「いらない子なんだ、アタシ、いらない子なんだ……」と呟いてる彼女の頭を撫ぜた。
「何ならいいのよ、さっきから全部却下じゃない」
「そうは言われましてもね、基本的に月知識は外に漏らすわけにいきませんし」
困ったですねえ、と他人事みたいに言った。
わたしの胸で涙を流す兎の背をぽんぽんと叩きながら、
「モノなら――知識じゃなくて物質なら、いいの?」
「はい?」
「たとえば――」
そう、あの時、手にした銀食器のような――
「たとえばナイフとかは? それも縁や運命を断ち切れて、魔物にも有効なナイフ」
「――結界を切り裂けるようなのは却下ですよ?」
「もちろん」
そこまでがめつく無い。
向こうの影は、黙ったまま考え込んだ。
そのまま五秒、十秒と経ち……
「いいでしょう」
交渉が成立した。
てゐの命=ナイフらしい。
兎は一際大きく号泣した。
+++
――ヒックヒックとしゃくりをあげるてゐを促がし、わたしは障子の外へと出た。
エイリンは、既に十メートル離れた場所でナイフを持って立っていた。
他の人に取ってこさせたのだろう。一人で取りに行ったにしては、さすがに速すぎる。
――まあ、てゐが泣き止むのを待ってた時間が長かった、っていうのもあるのかも……
わたしは既に浴衣を脱ぎ、キチンと洗濯され、押し入れにしまわれてあった服に着替えてた。
前のはてゐの涙やら鼻水やらで大変なことになってたのだ。
廊下奥の、ヘンな服の人物を注視する。
……相変わらず底が知れない笑顔だ。
「交換はどのようにしますか?」
「……まず、てゐを中間まで歩かせ、立ち止まらせる。その時にナイフを鞘にいれたまま、こちらに滑らせてくれればいいわ。その位置なら、わたしがてゐを即座に襲うのは難しいし、逆にそのまま逃げられても、反逆されても対処ができる」
彼女は確認するように問うた。
「本当に、それでいいのですか?」
「ええ」
これも駆け引きの一環なんだろうな。
わたしにしがみ付いたままのてゐを強引に歩かせた。
何故だが名残惜しそうな――エイリンの元へ歩きたくなさそうなてゐだったが、渋々と歩き出す。
わたしは、エイリンだけを睨んでいた。
この場で主導権を握っているは、実はわたしではなく彼女だった。
『閉じ込められてる』と表現したが、さらにこの永遠亭という、もうひとつの拘束場があるのだ。
わたしがここで出来ることは非常に小さい。
わたしとエイリンが睨みあう中、板敷の軋む音だけが断続的にしていた。
やがて中間地点でてゐが立ち止まると、エイリンはナイフを滑らせた。
廊下を滑走したそれは、石像の横を通り、てゐの足元を過ぎ去り、わたしの足下で堰き止められた。
「――――」
エイリンから視線を外さないまま、そのナイフを取る。
持った質感は、これまでのどんなものとも違ってた。
仄かに温もりがあり、持った感触もどこか柔らかい。
これ、本当にナイフなんだろうか?
一瞬だけ下ろした視界には、精緻な螺鈿模様が描かれ、地球上のどんな様式とも異なっていることが分かった。
――たぶん、気が緩んだのだろう。
これでレミリアに対抗する手段を、ごく僅かとはいえ見つけられたのだ。
てゐがエイリンの元へと駆け寄る中、わたしは永遠亭と呼ばれる屋敷をざっと観察――年輪の細かい高級そうな柱、明るい木目の廊下、そして、奇妙な石像を初めて直視した。
「お?」
「ん?」
「あら?」
三様の疑問声がする中、わたしはおかしなことになっていた。
――なんで、『すぐ目の前に崖がある』んだろう。
上下に延々と、磨きぬかれた板が続いてた。
もちろん、こんなのは錯覚だ。
ゴッ! と鈍い音がする。
「ちょ、アンタ!?」
「あらあら、まだ体力が回復してなかったのかしらね……」
「ひょっとして永琳さま!」
「月の民として、約束を違えるような真似はしませんよ。それは邪推です、てゐ」
わたしはどうやら、廊下へと、えらい勢いで倒れたらしいと分かったのは、しばらくの後だった。
――ナイフに毒が塗ってあった、わけではない。
もっと違う理由でだった。
眼窩で火花が散った。
脳の奥から異様なものが這い出ようとしていた。
「――」
知らず、口から音が漏れる。頭が割れそうに痛んだ。思わず両手で圧迫する。
「――……―――ッ!」
横隔膜が痙攣し、顎がガクガクと震え、肺の酸素が完全に失くなるころになってようやく、わたしは自分が哄笑してると分かった。
耳が、狂った笑い声を聞いていた。
視線を上げると、二人がわたしを見てた。
エイリンは変わらない表情で、てゐは怯えたような顔で。
でも止まらない。
狂った音程の笑い声が廊下内を響き渡った。
しばらくそうしていた後、わたしは「心配いらない」の意を込めて、片手を上げた。いまだ咽喉奥で燻る、笑いの余韻を噛み殺す。
――ああ、知らなかった。
出そうになる狂笑を抑え、自己発見を確認した。
――わたしは、怒りが臨界を越えると、笑ってしまう人間だったんだ。
「大丈夫、心配しないで」
おかしくなった平衡感覚を宥めながら立ち、わたしはてゐに、できるかぎり優しい笑顔を送った。
「ちょっと……あんまりにも許せないことを思い出しただけだから」
人質交換なんて、頭から吹き飛んでた。
てゐのことを気にすることが出来たのは、奇跡みたいなものだ。
視界が異常に紅い。今なら上下左右の区別なく、なんでも『視れる』気がした。
実際、わたしは自分の姿さえ分かった。まるで悪魔みたいに真っ紅な双眸をしてた。
視える風景すら一変し、縦、横、奥行きのどこにも属さない、第四の『長さ』が視えていた。
――マグマ溜のような怒りが、また笑い声へと変換される。「巫山戯るな、巫山戯るな!」という言葉だけが内部で木精していた。
拡大した認識は、『視え』ていなかったレミリアの運命さえも捉えた。わたしが操ることは出来そうもないけど、これをたぐり、あの時代に行くことは可能だろう。
まったく、思い出した途端にコレとは、恐れ入る。
運命は、本当に皮肉と悲劇が大好きらしい。
一切合財、チリも残さず滅却できたら、きっと良い気分になれることだろう。
「それじゃ、わたし、帰ります。お世話になりました」
帰還する方法が分かれば、ここにいる理由はもはや無い。
武器も手に入ったのだ、望むものはもう何も無い。
否、これ以上、一秒だって無駄に時間を過ごせば、どうにかなってしまいそうだ。
対価として残せるものは何も無いけれど、せめてお礼くらいはキチンと言わなければ。
紅い目のまま、わたしは自分にできる最上の笑みを浮かべた。
油断なく、恐らくはおかしな動きをすればわたしを殺傷する予定であろうエイリンにではなく、いまだ怯えを消せないでいる、てゐへ向けた笑顔。
――紅い運命線を引っつかみ、カメラで自分をフレーム内に収める。
時間跳躍に対する忌避も、レミリアへの恐れも無かった。そんなもの、別の感情が塗り潰してる。
第四の長さに属する『それ』の行く先を視つめ、視据え、凝視する。
――わたしの指が知らぬ間にシャッターを切り、
――
呼び声に応えた。
てゐとエイリンの姿が消える。
五度目となった跳躍は、いままでになくスムーズだった。
失神することもなく、常態のまま異空間を認識する。
なんとも表現できない、五感では捉えきれない世界内で、わたしは独り呟いた。
――あの石像、見覚えがあって当然だわ……
本当に、なぜ分からなかったのだろう。どうかしてる。
メリーが出現した時、巫女の周囲を彩っていた仰々しい装置。その中に、紛れ込んでいた。
夫婦にして兄妹であり、道の境を司る『道祖神』。
自分にオカルトの知識があったことを、これほど感謝したのは初めてかもしれない。
――庚申塔。
――橋姫。
――鳥居に河川。
――そして、道祖神。
形は違えど『境界』を現す存在。
出現しようとするメリーを、奉るように列べられていた。
位置関係として、それらの上位に彼女が立つことになる。
メリーを中心に据えた儀式――ただの人間であるはずの彼女を『境の神』として扱う儀式――であることに間違い無い。
そして半分がこれら『境』の象徴であったなら、残り半分の……メリーを囲んでいた品々の用途は――
視界が、一際、紅くなる。
奥歯が砕けそうになる。
――――