注・いまさら言うのもなんですが、実はこのSS、拙作『結界を決壊』の続きだったりします。
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もう、笑うしかなかった。
「は、ははは……」
力ない笑い声が、口から漏れる。
夜天を、うつろな声が響いた。
そこそこ普通ではない人生を送ってきたつもりだけれど、これほどのことは経験が無い。
「た、たいむとらべる、って……」
いったいどこのSFだ。
わたしはオカルトは好きだけれど、荒唐無稽な話は好きじゃない。
相対性精神学が何を言っても、超統一物理学は『過去に飛ぶのは限りなく不可能である』と告げているのだから。
確かに物質が光速以上の速度を出せれば、その物質は過去に行くことが出来る。けれど、そのためには無限に近い加速エネルギーが必要だし、大きさも原子レベルが精々。
人間一人分なんて途方も無い量は不可能だ。
そもそも人間の体細胞が『光速以上の速さ』なんてものに耐えられるはずがない。鉄でも鋼でも金剛石でも無理だろう。
「そう……無理、なはずなのに……」
わたしは、上を見上げる。
慣れた星空ではなく、中心点がわずかに異なっている。
なんだか、見ていてクラクラしてくる。
――目の前の現実は、まるで揺らいでくれなかった。
「明治時代、ぐらいかな、これは……?」
北極星のズレ具合から推測する。
まさか、わたし自身が現代物理の敗北を証明するとは思いもしなかった。
世の中、ほんとに何が起こるか分からない。
助かってこれかい! と誰かにツッコミを入れたくなる。
ああ、メリーの頭が近くに無いのが欲求不満だ。
やはり、叩き慣れたものが近くにないと。
「まったく……」
やれやれとばかりに首を振る。
けれど、このまま世の無常と不条理を嘆き続けてる訳にも行かない。
世の中はシビアなのだ。
わたしは、自分自身を撮ることにした。
念写によってこの場に時間移動したというのならば、もう一度、念写をすれば元の場所に帰れる道理だ。
再現性のない能力は能力ではない。
それは、ただの偶然と言う。
ま、その可能性はかなり高そうだけど……やはり何としても帰りたい。
「さて……」
こほん、と咳をついた。
すーはー、と呼吸をし、
カメラを上方で構え、シャッターを――
――!――
――押すより先に致命的な事態に気が付いた!
身体すべてを急速冷凍。
電気信号すべてに「止まれ!」と命じる。
わたしは……ブリキ人形のようにギクシャクと周囲を見渡す。
ここは場所的に、『時間跳躍前と同じ位置関係』に在る。
仮に、である。ここで元の時間に戻ろうとしたら、同じ場所に、つまり先ほどの危機的状況に逆戻り、ということもあり得るのでは?
いや、可能性はかなり高い。
過去跳躍で位置関係が移動しなかったのだ。未来跳躍でもそうだと考えるべきだろう。
このまま行くと、闇妖怪たちが取り囲む中に再出現。遥か未来にいる彼らからすれば、『獲物が一瞬だけ消えてまた現れた』としか見えない、実に間抜けな結果になるのでは……?
「…………」
わたしはカメラを構えたまま冷や汗をかいてた。
いま押そうとしてたのは、確実に自殺のスイッチだった。
「さ、早く進まなきゃね」
カメラをカバンに収納し、誰にしてるんだか分からない釈明をしながら、わたしはふたたび下流へ向かった。
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一時期の混乱状態(無意味に照れてみたり、膨大な冷や汗が出たり)を脱し、闇の中を、わたしは夜空だけを見上げながら、ただ無心で歩いた。
空、というのは、すべからく時計であると思う。
もともと日時計なんていうのも太陽の動きを追随するもの――影の動きによって作られたものだ。
つまり、地球の自転する動きは時計の動きでもある。
それは昼でも夜でも関係ない。
「あー、そういえば……」
基点時間。
わたしが跳躍した日は、いったい何日だったのだろう。
遭難していてあまり気にしてなかったけれど、それが分からなければ、正確に帰還することもまた難しい。
下手にズレたりしたら、また時間跳躍しなきゃいけない可能性がある。
それを多く行なえば、当然ながら『わたしの知っている未来/現在』は変化してしまうだろう。
実を言えば、ここでこうしてることでさえ相当に危険なのだ。
バタフライ効果というものがある。
『北京で蝶が羽ばたくと、ニューヨークで嵐を起こす』というアレだ。
風が吹けば桶屋が儲かる的な考えだけど、これが意外と馬鹿にできない。
雑多な説明は省くけど、『わたしの知ってる現在』を変えたくないのなら、時間跳躍の回数は少ないに越したことはないのだ。
「えーと……」
記憶を検索する。
メリーと一緒に博麗神社へ行ったのが8月15日。
その帰り道の途中で遭難したから、必然的に『基点日』は8月の……
「いや、待った」
そうでは無いはずだ。
博麗神社からの帰還後、メリーはわたしの家にまで付いて来て泊まったのだ。
そうだ、布団を列べてお喋りを続け、先に眠ってしまったメリーの寝込み襲おうかどうか真剣に悩んでいたのだ。
完全に記憶している。
あの時の理性と本能のせめぎ合いは、手に取るように思いだせる。
そして次の日、メリーを玄関先で見送り、己の決断力の無さと怯懦を悔やみ、枕を涙で濡らしたのだ。
「なら――」
8月16日なのか?
遭難日がそうなら『基点日』は8月17日に――
……え?
ちょっと待った。
何かおかしい。
8月16日、わたしは何をしていた?
たしか……そうだ、博麗神社での出来事を反省し、拳銃を装備することにしたんだ。神社での写真の確認もした。
それから、
それから?
「――記憶に、無い……」
愕然とした。
いままで確かだった土台が、もろくも崩れ去る。
顔の血の気が引くことを自覚する。
咽が鳴る。
カラカラで、唾はまるで出なかった。
ひりつく感覚だけを嚥下する。
助けを求め、辺りを見渡した。
『憶えていない』ということが、これほど怖いことだとは思いもしなかった。
そうだ、わたしは、そもそもどうしてココにいるんだ?
寝ぼけて歩いたわけではないだろう。明らかな結界内、異世界である。
そんな所へ簡単に入れたら、わたしやメリーは苦労しない。
いや、それに、何故『いままでこのことを疑問に思わなかった』のだろう。
あまりにも、簡単に受け入れてた気がする。
――無意識に、足が速くなっていた。
必死に理性で抑える。
全力疾走してしまいたい。
心臓がバクバクと、苦しい。
頭の中では「何故?」という単語だけが躍ってた。
思考が沸騰してしまいそうだ。
巨大な罠の中に入れられているような焦燥。
迷路に閉じ込められたマウスのような気分。
いくら歩いても進んでも、答えは出てこない。
木々が左右を避けてゆく、視界が流れてゆく。
土を踏む感覚が、だんだんと早くなり――
――さぁ……
唐突に、視界が開けた。
森が終わり、小川の終着のひとつにたどり着く。
わたしは足を止め、呼吸を整えた。
爆発寸前の心臓と肺を宥める。
見渡してみた。
そこは、広大な湖だった。
光源は月明かりだけなのに、恐ろしいほど澄み渡っているのが分かる。
湖面は鏡のように月や星を反射していた。
暴走しそうだった頭に冷水が入れられ、すぅ、っとクリアーになる。
それほど、奇麗だった。
暫くの間、悩みも忘れて、ただ呆然と見ていると――
「……?」
――向こう岸に、なにかが見えた。
中心に行くほど濃い靄が覆い、精緻には見えないが、小さな島と、その上に建っている建築物である、ということは分かる。
慣れぬ星空を見上げると、もう既に30分近く歩きつづけたことが分かった。
8月16日に何があったかは思い出せないけれど、『基点日』が8月17日なのは間違いない、と思う。
時間も正確ではないけれど憶えている。
たとえ記憶が欠損していても、ここで時間跳躍する分には何の問題もないはずだ。
「…………」
だけれども、わたしの目は、建物の方に張り付いて離れなかった。
別の場所を見ようとしても、吸い寄せられてしまう。
――運命の針が、カチリ、と一目盛り動いた音を、聞いた気がした――
ここで帰還を試した方が得策だと、頭では分かっているのに、どうしてだか、それを実行する気には微塵もなれなかった。
自分でも良く分からない心境だ。
「時間跳躍の前の、ウォーミングアップだと思えば、空間跳躍も無駄にならない、よね……」
自分を説き伏せつつ、わたしは彼方の建物をフレームに収め、シャッターを切った。
周囲の空気と、足元の感覚が途絶え――
+++
――顔からカメラを離すと、そこにはもう巨大な館が目の前で鎮座していた。
反対側の岸辺に一葉の写真が舞っているのが見えた。
どうやら、『わたしの移動』と引き換えに、あの場所に残ってくれたらしい。
地形の関係なのだろうか、霧が異常に濃い。
本当にミルクでも溶かし込んでいるみたいな深さ。
向こう岸が、段々と靄に紛れ、目に映らなくなる。
ふたたび振り返って、今度はちゃんと見てみると、
「うっわあ」
思わずそう言ってしまうほど、目の前の館は『それっぽかった』。
幽霊が出ないのは失礼だと思うほどの雰囲気。
重力が0.1くらいは違ってるんじゃないか、ってくらい重々しい。
5秒くらい黙って見つめた後、わたしは近づき、躊いつつもドアノッカーを叩いた。
ライオンに咥えられた鉄輪は、除夜の鐘のように響いた。
「…………」
そして、それだけだった。
返事は何も返ってこない。
扉は閉ざされたままだ。
わたしは、唾を飲み込み、ドアノブをゆっくりと回転させる。
意に反してなんの抵抗も無く回り、軋みを上げながら扉は開いた。
恐る恐る、顔だけで覗き込むと、暗い廊下がどこまでも広がっていた。
蝋燭の一本も立っておらず、洞窟みたいな底なしの暗さだけがある。
「……あの、スイマセン!」
声は酷く響いた。
音が反響しているのが分かる。
だがやはり、返って来る物音はひとつも無い。
「あの……」
暗い廊下は続いたまま、存在のあり方を変化させない。
(廃屋、なのかな……?)
もしそうなら、一時の宿として休憩させてもらおうかと考える。
ベッドなんて贅沢は言わない、せめて柔らかなソファーの上で眠りたかった。
文明人は野外で眠るなんてプログラミングはされていないのだ。
記憶の部分喪失も、一晩ぐっすりと寝れば案外、あっさりと思い出せるかもしれない。
「誰も、いないですね……」
ドアノブを更に押し開いた。
軋む音が闇を震わせる。わたしは怖々と侵入し、後ろ手で扉を閉め――
「いらっしゃいませ」
「うわっ!?」
唐突に、背後から声を掛けられた。慌てて振り返ると、わたしと扉のごくわずかな隙間にメイド服を着た、ごく幼い少女がいた。なんのホラーだ。
銀系の髪、瞳はひたすら深い、胸の前で手を重ね、背を垂直にして立っていた。
見た目と掛け離れた、不自然なほどの落ち着き。酷く冷めた部分のある少女だった。
(なんだろう?)
見た瞬間、わたしは再び目を離せなくなった。
自分で自分の感情に混乱する。
「こちらへ」
口の端だけを動かす独特の笑みで、少女(というよりも幼女か)はわたしを導いた。
わたしが付いてくることを、まるで疑問に思っていない動き。
窓の外に見える、星と月が描く時計をなんとなく見ながら、わたしは「あ、はい」などと間抜けな声を上げた。
何故だか、彼女の意見に反対する気になれない。
わたしは一歩だけ遅れて、彼女に付いていった。
――廊下は暗く、足元すらよく見えない。だが、灯りも付けずに少女は歩いてた。
夜目が利くからわたしは構わないのだけど、メイド少女もかなりのものらしい。
歩く道すがら、わたしは事前に連絡をした客ではないこと、それどころか迷っているだけの旅人であり、あわよくば一夜の宿にここを借りようとしていたことなどを説明したが、このメイドは話を聞いてるんだか聞いてないんだか、「はい、存じています」としか答えない。
……なんか、まるでわたしが来ることを知ってるみたいな対応だ。
――両側に列ぶ絵は、わたしでも見た事があるほど高価なものだったが、この暗闇の中では、その価値は半減されていた。
所々に蜘蛛の巣が張り、床もかなり汚れている。
こう見えてもわたしはけっこう清潔好きなので、なかなか許せないものがある。
「えーと、ここって、人はいないの?」
緊張を解すために、わたしは問い掛けた。
「……ここには、屋敷の主人だけしか住んでません。ああ、もちろんもう一人いますが……」
「ふうん」
返事をしつつ、わたしは周囲を更に見渡した。
――なんだか、寂しげな場所だった。
なんというか、活力が無い。
二人だけしか住んでいないせいだろうか、人が多くいれば当然のように発生するエネルギーが枯渇していた。
廃屋と見間違えたのも無理の無いことだった。
やがて廊下の奥に突き当たり、メイド少女が扉を開けた。
そこは、立派な応接間だった。
値段なんか想像するだけで身動きが取れなくなるような、それでいて圧迫感の無い、居心地の良い空間が広がる。
「ちょうど退屈だったので、お茶に付き合ってくださると助かります」
自分の側だけの事情をメイド少女は説明し、強引にわたしを座らせた。
引かれた椅子にわたしが座ると、今度は準備を始めた。
意外と我侭、強引、マイペースだ。
思わずため息をつく。
――ほとんど物音も立てずに軽食と紅茶を配膳し終えると、少女は対面に座り、興味深そうにわたしをジッと見た。
「…………」
「――――」
そしてお互い、一言も喋らない。
まるでお見合いだ。
たまにカチャカチャと、食器の鳴る音だけがしている。
――どうにも、つかみ所の無い少女だった。
わたしだけ見られてるのも癪なので、こっちも観察してみる。
カップを持ち上げ、唇に紅い液体を飲み込む、その挙措はとても奇麗で非の打ち所が無い。淹れてくれた紅茶そのものだって、風味豊かで渋さはカケラも無くカンペキだ。滅多に笑わない鉄面皮ながらも愛想無しというわけではないのか、こちらの視線に気付くと二コリと微笑み返してくれたりして、諸所に感情を窺わせる。
悪い娘じゃない、とは思うんだけど、どうにも、なにか違和感があった。
この種のわたしの勘は驚異的な的中率を誇る。
「えーと」
「…………」
何を言おうか、迷っていた。
正直に言おう、わたしは、この少女に呑まれかけていた。
まるで彼女の掌(たなごころ)の上に居るような、一瞬後には死亡してもおかしくない気がしている。
別に彼女が何かをしたというわけじゃないのに、その感情は刻一刻と高まっていた。
一体、なにを言えばいい?
「話を……」
「ん?」
「なにか、お話を聞かせてくれませんか? 私の方から話すようなことは、ほとんど何も無いのです。見ての通り、辺鄙な場所にあるものですから」
「あ、ああ」
と、困った。
わたしが話せる話題なんて、限られてるぞ?
――でも、仕方が無い、見も知らない人間を招き入れ、その上、こうして軽食や紅茶までご馳走して貰ったのだ、ここで何の返礼もなく帰るのは、流石にこちらとしても気分が悪い。
それに、この少女には、妙に人を惹き付ける要素がある。それもまた確かなことだ。
わたしは思いつくままに口を開いた。
・
・・
・・・
「――それで、どうなったんですか?」
「あ、ああ、うん。それでわたしとメリーはね――」
秘封倶楽部の活動を語る。
こうして思い出してみると、実に色々なことがあった。
町中に出現した殺人鬼の話、海中に張られた結界内へ侵入した話、絵画の中に閉じ込められた話、骸骨に求婚された話、猫が人として暮らしてる場所、夕日だけしかない世界、生涯に一度だけしか行けない旅館、夜が封じ込められたマンホール、ガラスの立体迷宮、延々と葬式を続けてる世界……
少女は、目を爛々と煌かせて聞いていた。
よっぽど暇だったのか、呼吸をするのも忘れてる様子だ。
話し手としても、ここまで食い付いてくれると気分がいい。
また知識も膨大らしく、時に訳が分からず終わってしまった出来事の、「こうではないか」という解説までしてくれた。
話せば話すほどに、この少女と息が合うのが分かった。
ここまで意気投合できる人なんて、いままでだとメリーくらいしかわたしは知らない。
予想外に楽しいお茶会の時間だった。
――話が一段落し、洋菓子をあらかた食い尽くした頃、彼女がふと言った。
「――――話を聞いていると」
「ん?」
「貴女はとても面白い能力を持っているようですね」
わたしはカップをソーサーに戻しながら首を傾げた。
「え、メリーじゃなくて、わたしが?」
「ええ」
どういうことだ?
褒めてくれるのは嬉しいけれど、大した能力でないことは自覚している。
星や月から、時間と場所を知ること。念写をすることだけだ。
……ま、最近は、発展しつつあるけど……
「いいえ、貴女は気付いていないだけです」
「何に? 空間把握能力は、そりゃ人より優れてる自覚はあるけど……」
「それです」
「え?」
「計測器も無しに、星々から現在の時間を測るなんて出来ませんよ。まして分や時ではなく、秒単位で分かるのでしょう? いかに空間把握が優れていても、それほどのことは出来ない。
貴女は『空間を視て』いる。そう考えた方が自然です。そして、徐々にそれを『操る』境地にまでに達しようとしている。また同時に、念写による情報獲得は、対象の過去・未来を『視て』いるのだと推測できる。つまり……」
言わずとも、その先は分かった。
「わたしは、『時間を操れる』……?」
メイド少女はコクンと頷いた。
「本質的に、その両者は同じなのでしょうね。ここには館主の妹も住んでいますが、彼女には『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』があります。そして彼女が戯れに時間を壊そうとした際、同時に空間まで破壊してしまいブラックホールを生じさせたことが有りました……ああ、従業員の大半もそれに巻き込まれてしまいまして、今、人手が無いのはそのせいなんですよ」
「はあ……」
生返事しかできない。
なんだか、自分のことを言われている感じがしなかった。
わたしが『時空を操れる』?
そんなこと、可能なのだろうか。
「あれ?」
紅茶に口をつけつつ、わたしはふと疑問に思った。
「あの……館の主の妹が、いるんですか、ここに?」
「ええ」
「ええっと、なら、さっき『主ともう一人だけしかここにはいない』と言ったのは――」
間違いなんですよね、と続けようとして、わたしは出来なかった。
冷気が肌に忍び寄る。
闇が深く濃くなった気がした。
彼女は……笑った。
キュうッ、と口の端を上げてた。
「気付いたか」
一瞬、
一瞬だけだが、恐ろしいほどに冷たい目をした。
混乱するわたしを気にせず声が続いた。
「悪魔が不自由なのは、こんな時よね。『ウソを付いてはいけない』なんて、どだい無理な話なのよ……」
「あの……」
スイッチを切り替えたように変化した彼女は、ふわり、とわたしに微笑みかけ、
「ねえ、貴女、気に入ったわ。私の従者にならない?」
そう問うて来た。
正気で言ってるとは思えない。
わたしは冗談のように暈して答えた。
「あ、アルバイトってこと?」
「いいえ、『私のものになる』のよ」
そこにはカケラも遊びは無く、澄んだ瞳だけが覗いていた。
――先に語った、殺人鬼の目にそっくりだった。
飢えて飢えて飢えすぎて、もはや本人にすら何をを欲しているのか分からず、間違ったモノで満たそうとしている目。
激情が理性を塗り替えようとしている瞳。
「知ってる? 時に人間は、満月よりも、ほんのわずか欠けた月を好むそうよ、欠点があるからこそ、いとおしい。愛でてしまう……
私には、何のことだか分からなかったけど、今なら分かる気がするわ……
まるで貴女のようなのだもの。完璧なのに、どこかに疵がある。他の人には分からないほどの誤謬と欠損。
それがより魅力を高じさせる」
喋りながら、姿までもが変化している。
蝙蝠の翼がいつの間にやら生えていた。瞳は紅く紅く虹彩を狭め、無限の狂気を現している。服はいつの間にか形を変え、より彼女に相応しい――この館の主に相応しい――ものになっていた。
「ああ、そういえば、まだ名乗っていなかったわね」
口の端だけを上げる独特の笑みで、彼女は告げた。
支配者そのものの笑み。
傲然と彼女は言い放つ。
「私の名前はレミリア=スカーレット。紅い運命の操作者。古く貴き一族の一端。貴女が指摘した通り、この屋敷には、私と妹しか住んでいないわ」
わたしは、身動きが取れなかった。
金縛りとは違う、とにかく動けない。
「貴女に警戒心を持たれないよう、あんな格好をしてみたけれど、慣れないことはするものじゃないわね……」
彼女は笑っていた。
表情や顔そのものは何ひとつ変わらないのに、決定的に異なっている。
底なし沼のような、虚無を湛えた存在感。
――ここだ。
こここそ、張り巡らされた罠の終着なのだ。
気付いているのに、
分かっているのに、
わたしは、立ち上がることすら出来ない。
その目、
その存在、
その生命、
吐き気がする。
吐き気がしてしまう。
吐き気がするほど
彼女を上位者として迎えることに、なんの疑いも持てない。
なによりも、どんなことよりも、そんな自分の心境に混乱する!
「時空を支配できると言ってもね、貴女にはまだ、時間跳躍は無理なのよ」
「え……?」
「それはモノの因果を歪める作用。時空を支配する程度では、原因と結果を逆様にすることは出来ない」
何を、言っている……?
「まして貴女は能力をやっと操作できた段階……ねえ、時間跳躍する時に、『何かの助力』を、感じなかった?」
「あ――」
確かに感じた。
跳躍時、わたしは何かの手助けをされていた。
そして『空間跳躍』をしようとしていたのに、なぜか『時間跳躍』になっていた。
――いや、待て。考えてみるとおかしい。なぜ『見も知らない時代』に跳べた?
湖の岸から岸に飛ぶのにも、カメラのファインダーで写す必要があった。『跳ぶ』のには、その場所の正確な情報が必要なはずだ。
なんの予備情報も持っていないここに、どうして来れた!?
――そうだ、そもそも、なんで『川の下流へ行こう』と思ったんだろう。
なぜ他のルートを考えなかったんだろう?
太陽の方向、星の配置から、東西南北くらいはいつでも分かる。それに、どうして『上流へ遡ろう』と微塵も考えなかった?
普通、遭難した時には、山頂を一度目指すのがセオリーなのに。
背筋が冷えた。
目の前の妖怪を見つめる。
わたしの疑問に答えるように、少女は告げた。
「私が操るのは運命、貴女が操るのは時空。ちょうど織物の縦軸と横軸のようね、私が因果を操り貴女を『この場に引き寄せた』、貴女は空間を操り、通常ならば来れない『この場に来た』」
――ね、ピッタリだと思わない。と続けた。
逃げたい。
ここから一刻も早く逃げ出したい。
そうじゃなきゃ、『もう戻れなくなる』。
痛いくらいにそのことが理解できた。
わたしの意思も判断も思考も関係なく、この妖怪はわたしを『ここに』誘き寄せたのだ。
今すぐにでも逃げなければ、取り返しのつかないことになる。
動かない身体を無理矢理に動かし周囲の状況を把握する。
テーブルの上にカメラ、手に取るには遠すぎる。
手元にはフォークとナイフと皿。
せめて動こうと足掻くけれど、身体は反応しなかった。
少女は、鋭い牙を見せながら、くすくすと笑った。
「そういえば、まだ貴女の名前を聞いてないわ。こちらが自己紹介したのだから、そちらも名乗るのが礼儀でしょう?」
わたしは答えない。
答えてなるものか。
少女は――レミリアはわたしを凝と見つめると、納得したように頷いた。
「そう、ウサミレンコと言うのね……」
名乗っていない!
「でも、それは貴女を表すのに相応しい名ではないわ。私が、もっと相応しい名を与えましょう」
レミリアは窓を見上げた。
夜空すらもわたしを裏切ったのか、そこに、通常の星や月は無かった。
星は時を知らせず、月は在所を示さない。
僅かに欠けた、白月だけが昇っていた。
「ウサミ――月のウサギは貴女を表さない。月を視る必要も最早ないわ。
貴女は、むしろこの月そのものみたいだわ。冴々とした冷たさはナイフのよう、完全さと誤謬のバランスが融け合っている――
レンコという下の名は――似合っているわね、彼の花みたいに完璧だわ。でも、咲くのは私のためだけになさい。太陽の下で咲くなんて、許さない、ただ夜の中でこそ、貴女は咲くの――」
――だから、あなたの名は――
恐怖が、何よりも先に反応し、テーブル上のナイフを掴んだ。
――どこかで、針がまた、ガチン、と鳴った――
掴んだ感触は妙にしっくりと馴染んだ。
わたしは躊躇なくレミリアに向けてナイフを投げた。
あやまたず銀光は相手の胸に突き刺さる。
生理的嫌悪を催す異常な音。
レミリアは、口から血を垂らしながらも笑っていた。
視線はわたしに絡みつく。
「っ!」
インスタントカメラを『操り』、90°回転、わたしを収め、『シャッターを押させた』!
この場から離脱する。
館の外。
だが安心なんてカケラも出来ず、ふたたび跳躍する。
――カシャリ――
――――カシャリ!――
―カシャリ!! カシャリっ!! カシャリ!!――
対岸へ、森へ、樹上へ、空へ、シャッターを切る度に視界が移り変わる。
フィルムが無くなるまで押しつづける。
遠くへ、とにかく遠くへ!
だけれど、どこまで移動しても、あの目が見つめているのが、何かがわたしに絡んでいるのが分かる。
――もう罠は閉じられた。
――どこに移動しても無駄。
――貴女は、この時代に来てしまったのだから!
脳奥で、そう囁かれた。
距離の遠さは関係無い。
わたしはこの世界での寄る辺は何も無い。
どれだけ移動できても『この密室』からは逃げられない!
(捜すんだ!)
わたしは自分に命じる。
世界をあまさず『視ろ』!
自力で時間跳躍が出来ないというのなら、他の力を借りればいい。
ともかく、この醜悪で親和がありすぎる罠から逃げるのが先だ!
能力を全展開、この世界を半球状のグラフィックで表示させた。
世界の有り様を把握する。
あらゆる箇所を検索する。
脳のシナプスが発火する。
胃が絶え間なく蠕動し、肺は酸素を求めて収縮と拡大を繰り返す。
どこだ!
どこに行けば……!
脳髄が灼き切れるような焦燥の最中――
ふと、馴染み深い、気配を、察した
有り得ない場所で、有り得ない時代で、有り得ないタイミングで、それは確かに知っている感触だった。
展開した半球に、急激な特異点が生じる。
空間が乱れているのが分かる。
「え……?」
間抜けな声を上げながら。
レミリアからの引力も忘れて、わたしはその場所に向けて、ほぼ自動的にシャッターを押した。
――カシャリ
……深い闇。
そこに燃えさかる薪。
どこかで見た事のある雰囲気の巫女が、厳しい視線をわたしに飛ばしていた。
何かの儀式準備なのか、大仰な設備が列ぶ。
夜空には月時計、その位置関係が、なぜか記憶に残る。
「これ、は……」
ぐにゃり、と、背後の空間が歪んだのを感じた。
『――っ!』
レミリアの焦る気配が、遥か遠くでした。
わたしがゆっくりと振り返ると、そこでは光が集積し、形を取ろうとしていた。
『視て』わかるほどに、凄まじい空間の混乱だった。
「……え?」
わたしは…………手を、伸ばす。
水中をかき分けるようにゆっくりと。
そこに現れたのは――
「メリー……?」
居る筈のない人間だった。
突如、身体全体がグイっとばかりに引き寄せられた。
メリーが出現しようとしてる空間だった。
彼女の顔が、前を通り過ぎる。
彼女が振り返る。
目と目が合う。
わたしたちは同時に驚いた。
彼女は出、わたしは入ろうとしている。
『待ちなさい! 行ってはダメ! 私の従者! 私の――
レミリアの叫び声。
わたしもメリーも手を伸ばし、触れ合おうとする寸前、
全てが断絶し、消え去った。
ばすん、ばすん、といくつもの画像が過ぎった。
空間の境界が曖昧にされて、有り得ない場所へ跳ぼうとしている。
時間跳躍ともまた違う、恐ろしいほどの空間乱舞。
――わたしは散華し、消えた。
・なかがき