「えくしっ」
わたしは風邪をひいていた。
ベッドの中で横になっている。
先ほどからくしゃみが止まらない。
これは、あれだ、昨日『にじ』と呼ばれる驚異の自然現象に感嘆し、雨の中をほんの4時間ほど眺めていたことが原因だと思われる。
『にじ』は7色だと言われているが、わたしにはどうしても5色しか見えなかった。
悔しいので観察を続けていたら今朝方にふらふらし出し、昼頃には寝込むこととなった。
午後からは今の症状が続いてる。
あるじは、「使徒は病気に一度なれば後はかからないよ、これが最初で最後だね」と言っていた。
免疫、抗体うんぬんではなく『こういった状態』にならないよう身体が対処するらしい、あるじが身をもって体験した。
「えくしっ! えくしっ!」
けれど、現在わたしが辛い事実には何の関わり合いも無い。
無闇に顔が熱いし、身体の各所が急に寒くなったりする。
ぼーっとして何もする気が起きない。
鼻が詰まっているので口でしか呼吸できないが、咳でそれすら中断してしまう。空気の通り道が2箇所ある必然をいやというほど理解した。
世の中は奥が深い。
「うー」
「ん」
横で本を読んでいたあるじが気が付いた。
手早くティッシュを取った。
「はい、チーンして」
「うー」
酷く情けない音がした。
おかげで少しすっきりする。
「あるじ・・」
「ん?」
「あたまが、いたい」
「うん、風邪だからね」
ページをめくる音がした。
「あるじ・・」
「ん?」
「からだが、だるい」
「熱も出てるからね、治そうとシアの身体が闘ってるんだよ」
ちょっと視線を感じた。
毛布を掛け直してくれる。
「あるじ・・」
「ん?」
「のどがかわいた」
「そっか、ちょっと待って」
本を置き、空のコップを持って扉を出る。
扉を出てしまった。
なんで出て行ってしまったのだろう?
なんで傍にいてくれないんだろう?
熱い思考の中、疑問が浮かんだ。
パタンと扉が閉まる音と遠ざかる足音。
さみしい。
舞台から袖へと行ってしまった音、そんな感慨が浮かんだ。
『わたし』という観客の見えない所へ引っ込む音。
狭い範囲しか知覚できないわたしは、舞台裏を見ることができない。その呼吸、その体温を感じられないことは存在しないのと同じになってしまう。
復帰して欲しい。
かちこち、時計の回る音がする。
「うー」
ひとがいないと部屋は広い。
生きて活動するものがいて、『場所』は生きる。
うち捨てられたビル群があそこまで寒々しいのも、そのせいだ。
だから、この部屋もこんなに寂しく、ひろびろとしてる。
「えくし・・」
なんか、もう、くしゃみをする力も出ない。
『しゅるしゅる』の『めためた』だ。
意味は無い。
眠ってしまいたいのだが、頭の奥に手錠を掛けられたような奇妙な熱が篭っていて、うまく眠れない。
ふとん、シーツもいつになく熱い。安眠の妨害だ。
邪魔な長髪は、わたしの身体にぺたぺたと引っ付いていた。
へたに身体を動かすと千切れそうで怖い。
外では木々が鳴り、涼しい風を部屋に運んだ。
蝉の声は相変わらず。何故そんなに喚くのか不思議なほどの音量だ。
いろいろな音がしているのに、とても静かだ。
淋しい。
(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・おそい・・・)
なんで水を持ってくるのに、ここまで時間がかかる?
5分、10分と時間が過ぎる。
カチコチ鳴る時計の秒針がやけに響いた。
夏なのに、とっても寒い。
部屋の中が一単位、暗くなった気がした。
(まさか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・帰ってこないつもり、では・・・・・・・・・・・・・・・・・)
じわり、と不安が湧いた。
(色々としでかしたわたしに愛想をつかして、独りこの小屋から出て行ったのでは・・・・・・・・・・・・・)
部屋が急に狭くなった。
恐慌に近いものがわたしを締め上げた。
そんな訳ない、自分で自分を虐めたいのか? こころの理性担当は呟くが、大波の真っ黒な寒さに飲み込まれた。
(そういえば昨日も濡れた髪をタオルで拭いてくれながら「こんなにして、どうなっても知らないよ?」と言ってた。あの時は気にもとめなかったが、『こんな聞き分けの無いのは相手にしてられないぜ』という宣言だったのか? あ、考えてみれば食事の用意も手伝ってない、最初は出来るだけ手伝う約束だったのに。わたしへの対応も最近は冷たい、気がする、まして、わたしは病人、足手まといは置いていかれるのが常道、やはり出て行くつもり・・・・・・)
視界がぼやける、鼻水もすごい。
風邪とは微妙に違うつらさが流れる。
姥捨て山、子殺し。
陰惨な言葉が脳裏をすぎる。
涙が出てきた。
「や・・だ・・・・・」
自分の耳で聞いても、かすれた、変な声だった。
最後に聞かれたのが、こんな妙な声だったのか?
そんな、せめて思い起こすなら何時ものわたしの声にしてほしい、もう、会えない、なら・・・・・
「や、だよ・・・・」
こころが悲鳴を上げてた。
情けない、惰弱だと思っていても、一つの言葉しか出ない。
それで頭の中がいっぱいになる。
部屋が牢獄よりも暗く、密閉されたものに思えた。
ここで死ぬまで朽ち果てるのだろうか。
長い長い時を、埃と一緒に埋もれるだけの人生なのか。
何も掴むことさえ出来ないのだろうか。
「ある・・・」
「や、お待たせ! 冷たい水だと身体に悪いから少しぬる目のお茶にしてみたよ、なかなか沸かなくてね、あ、いいお茶葉つかってるから美味しいと思うよ、低温でじっくり風味豊かってカンジだね、カテキンは殺菌作用もあるからこれで風邪もイチコロさ!」
「・・・・! あっ!」
「シ、シア!?」
わたしはベッドを抜け出して、あるじに近寄ろうとした。
高低差に抵抗しきれず、床に落下しそうになったところを抱きしめられた。
「っと、危ないよ、シア」
「あるじ、あるじ!」
「ん?」
「ごめんなさいごめんなさい!」
わたしはしがみ付いた。
「いい子にするから、わるいことしないから!」
わたしの弱さが噴出する。
「だから、すてないで!!」
ぎゅう、とシャツを握り締めた。
待つ。
こわい。
かちこちと、時計の回る音。
あるじは硬直してた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あー、大丈夫だよ、シア。そんなことしない、絶対にない。僕が生きている限り、傍にいるから」
頭を撫でながら答えてくれた。
すごく、やさしい目だった。
「あ、う」
わたしは丁寧にベッドへ戻された。
もう一度、撫でてくれる。
「いい子いい子、悪い子なんかじゃないよ、シアはとっても良い子だよ」
「・・・・・・・」
「安心して、僕は君が好きだから」
「・・・・・・・」
「こら、顔を見せなさい」
「・・・・・ことわる」
「んー、なんで見せられないの?」
「・・・返答を拒否する」
「指先まで真っ赤なんだけど」
「・・・・風邪だから」
「見せてくれないと撫でるの止めるよ?」
「・・・・ず、ずるい」
「やっと可愛い顔が見えた」
「〜〜〜〜っ!」
「ふっふっふ」
「卑怯、だ、本当に、見捨てられたと思っていたのだぞ」
「ばか」
叩く、というよりも、注意を引くための手の動き。
「逆はあってもそれは無いよ」
「逆?」
「うん、シアが愛想つかして出て行くとか」
「あり得ぬ!」
「そっかなー、他に好きなヒトが出来るとか」
「この世界には、わたしたちしかいないではないか」
「まだ全域を確認したわけじゃないから、生きているリリンがまだ何人かいるかもしれないよ? そうしたら分からない」
「いらぬ」
「ん?」
「あるじだけが居ればいい」
「そっか」
「そうだ」
「シアは甘えん坊だね」
「そのような事実は無い・・・」
「そんなことないよ」
「事実無根だ」
「ははっ」
「・・・・・・・」
「いい子いい子」
「む、ぅ」
あるじに頭を撫でられた。
気持ちいい。
先ほどまで、どうやっても訪れなかった眠りが降ってきた。
瞼にしんしんと降り積もる。
あったかかった。
「あ、お茶を溢しちゃったんだった、代わりを持ってくるね」
がし。
「・・・・・ん、シア、離して? 取りにいけない」
「・・・・・・・」
「えーと、咽喉は渇いたんだよね?」
「・・・・・・・」
「ほら、水分補給をしないと治るものも治らないしさ」
「・・・・・・・いい」
「ん?」

「いらない」

あんな思い。

「行くな」

もうしたくない。

「扉から、出るな」

だから、離したくない。逃がさない。

「ここに、いろ」

逃がしたくない。

「お願いだ・・・」

ぜんぶ、わたしのものに・・・・・

突然、狂気に近いものが、わたしの中から溢れ出てきた。
形も匂いも色も無く、強烈な違和感に似た『何か』、高温・高圧のそれは幾度も味わってきたものだが今回はその規模が違う。
世界が朱に染まった。いままでになくわたしの瞳も紅いことだろう。
その目は一人の男しか映さない。
嗅覚は一人の男の匂いしか嗅ぎとらない。
聴覚は一人の男の声しか聞き取らない。
触覚は一人の男の肌にしか興味がない。
そして、口の中の味覚は一つの味しか受け入れない。
飢餓とも違う『飢え』、もぎ取られていた魂が目の前にあるかのような焦燥感。
喪失の痛みはもう充分だ、後は与えてくれても良いだろう? そんな身勝手な考えしか思いつかない。
手をもぎ取る勢いで、あるじをベッドの中に引きずり込む。
「わっ!」
逃がさない。
わたしだけのもの。
暴れようとするのを無理やりに押さえ込む。
「った、ダメだってシア、風邪にも障るよ!?」
「いやだ!!」
叫ぶ。
「そんなこと言って出てゆくつもりなのだろう!! いやだいやだ!!」
「ちがう、っつ!!!」
かぶりついた。
塩からい気もするが良くわからない、それよりも熱い。
痛がっているあるじがいとおしい。
わたししか意識していない。
口の中が、嚥下して通り抜ける食道が、おなかの中が、とにかく熱い。
熱に酔った。
その熱は、あるじがわたしに溶け込もうとする熱だった。
わたしのもの、に。
「は、あぁ」
たまらない。
こんなの、耐えられない。
頭の中が白く染まった。
次は指の一本一本を喰らってしまおうか、お腹から内臓を一つ一つとりだしてみようか、少なくとも残しはしない、全部を喰べ終えればもう淋しくない。
ベッドに百年の間、寝つづけてもだいじょうぶ。
血で部屋もわたしもベッドも覆ってしまえば、時の果てまで暖かく居られる。
その幸せを甘受したい。
甘えるように喰らいつく。
真紅の繭の幻想が脳髄に満ちた。
背筋が震え、のどが脈動する。
世界が朱に染まった。
その鮮烈な赤と熱、顔にかかった赤がいとおしい、お腹の熱は考えるだけで狂いそうになる。
赤と熱、それだけがこの世に在る。
暴れつづけているあるじを押さえて、もっともっともっともっともっともっと・・・・・
「む」
ふらふらした。
天井とは、こんなに急回転するものだったか?
世界は回る回る、だから座ってさえいられない。
ちょっと涙目のあるじを視界に捕らえつつ、
「きゅ〜」
わたしは、倒れた。


/・/・/・/・/・/・/・/・/・/・/・/・/・/・/・/・/・/・/・/・/・/・/・/・/・/・/・/・/・/・/・/・/・/


目が開く。
夜だった。
匂いが、風が、空気がそれを告げていた。
・・・・随分と時間がたったようだ。
傍らの椅子には、変わらずにあるじがいる。
昼間と同じように本を読んでいた。
服やシーツは、替えられたのか真新しい。
真剣な顔で本を読んでいるあるじに、ちょっと見惚れた。
頭が涼しい。
何だろうと思って上を見る。
ひたいに乗っていた濡れタオルがずれた。
「あ・・・・」
つい声を上げてしまった。
もうしばらくは気がつかれずにいたかったのに。
静寂が一瞬、部屋を包んだ。
あるじはパタンと本を閉じ、こちらを向いた。
「・・・・・おはよ、シア」
言ってからまた黙る。
その瞳は促していた。
何を求めているか、わたしには分かっていた。
「あ、う」
でも、素直に言葉に出来ない。
「・・・・・・・・」
優しくも厳しくも無い顔、なんとも言いがたい顔でわたしを見てた。
「その、あの・・・・・」
「・・・・・・・・」
熱で朦朧としていた時の記憶が甦る。
あれも間違いなくわたしの本音だ。肉片のひとかけら髪の毛の一本だって残さず所有したい、そんなどうしようもない欲望がわたしにはある。
けれど、もし本当にしてしまっていたらどうなっていたか。
『その先』を、考えたくなかった。
熱狂の百年が過ぎた後、そんなものは想像だけでも究極の絶望に繋がる。
それをしようとしていたわたしは、だから、
「ご、ごめんなさぃ・・・」
謝らなければいけなかった。
「・・・・・・・」
・・・・・この間が、とてもいやだ。
今度ばかりは許してもらえないかもしれない、そんな予感がいつだってわたしを襲うのだ。
できれば耳を塞ぎ目を閉じたい。
許してもらえるのが分かるまで、そうしたかった。
けれど、これは罰だった。
わたしへの罰だから、目を開いて耳を閉じずに耐えなきゃならない。
窓の外には星明りが冷たく瞬いていた。
夜の海風が小屋を僅かに揺らす。
土や森からは、寝ているもの特有の静けさを伝える。
わたしは動かない。
あるじも動かない。
わたしたちは、まるで彫像のようだ。
外だけ正常な時間が流れ、部屋の中だけ区切られていた。
とても硬質な時間、だった。
やがて、あるじがため息を一つ吐いた。
「もう、しないんだよ、次は許さないからね?」
とっても、とっても優しい眼で見れくれる。
あ、赦してくれたんだ。
深い所で実感する。
「・・・・・・・・・・ぅん」
・・・・告白すると、わたしは『へんたいさん』なのかもしれない。
この時が一番うれしい。
何よりも、へたをするとあるじを喰べている時よりも。
普通で考えればどうあっても、何があっても許容できないことを赦してくれだのだ。
絶対、他の人であれば許可できないことを、受け止めてくれた。
『しょうがないなぁ』って視線をくれる。
身体がとけるような安堵だ。
嬉しい。
言葉に出来ないほど、安堵する。
「ふふふ」
「あ、シア、本当にもうしないんだよ!」
「うむ、ふふふっ」
「まったく」
「あーるじ♪」
「うわっ!」
だから、わたしはこういうとき、べたべたに甘えたくなる。
「ふふふ」
「あーもー」
椅子に座ったあるじに飛び込んでた。
まだ熱は下がっていないけれど、それすら幸せだった。
猫みたいに甘えてみる。
その手は、たまにしか撫でたり触ったりしてくれないけれど、とてもとてもうれしかった。

・・・・うれしいから、ついまたしたくなってしまう、そんな部分もあるのかもしれない。
そう言ったら、あるじはどう反応するだろうか?
こころに嬉しさを抱えたままで、わたしは笑った。